見出し画像

「きみはオフィーリアになれない」 瀧本達郎 後編 #086

「何のことだ?」
 表情には出さないようにしていたが、瀧本は全身汗だくだった。自分の意識の中の世界で汗をかくということがありえるのかはわからないが、とにかく、はっきりとわかるほど汗をかいていた。
 自分はなぜ、こんなところにいるのだろう?
 色々なことが自分の周りを通過していった。
 色々な人が、自分の周りをすり抜けていった。
 すべての日常は、やがては洗い流される。
 いまは当たり前にそこにあると思っているものが、
 ゆっくりと、
 時間をかけて、
 溶解し、
 崩れ、
 はがれ落ちて、
 自分の周りから消え去っていく。
 瀧本にとって、生きるとは、
 失うことと同義だった。
 何かを得ても、やがては失っていく。
 自分の記憶さえも、劣化していく。
 スピカと名乗る少年は身を翻し、リビングの方へと歩を進めた。何処へ行くんだとは誰も言わず、黙ってあとをついていく。スピカと名乗る少年は立ち止まり、これが函南からのプレゼントです、と言った。
 スピカと名乗る少年が手をかざすと、掌のそばからかすかな光が漏れる。リビングの中は薄暗く、水槽の近くしか明かりが灯っていないため、おそらく掌から発せられている光も、光量としては大したことはないのだろう。
 スピカと名乗る少年がまっすぐに手を振り下ろすと、まるでそこに幕が張られていたかのように、全く別の部屋が姿を現した。
 瀧本の家のリビングの続きになるようにして、全く別の家のリビングが姿を現したのだった。
 別の家のリビングには煌々と明かりが灯っていて、その明かりが瀧本の目に飛び込んできた。
 一瞬、視界が光のために遮られたが、すぐに目が慣れた。「隣の部屋」だ、と瀧本は感じた。そして、その隣の部屋にいたのは、先ほど帰宅したばかりの、安達凛子だった。
 安達凛子は驚いた表情を見せた。それは当然だろう、と瀧本は思う。突然、空間が裂けたかと思ったら、全く別の空間が姿を現して、しかもそこに人が四人もいるのだ。安達凛子はテーブルに座っていたのだが、泥の塊のようなものと向き合って座っていた。
 安達凛子は立ち上がり、何、どういうこと、と叫び声をあげた。
 瀧本は、僕です、瀧本です、と安達凛子に向かって叫んだ。
 先生? 瀧本先生? 安達凛子は驚いていたが、瀧本の姿を見ると安心したようだ。少し落ち着いた表情を見せた。先生、どうしたんですか、いきなり。
「ここは安達さんの部屋ですか?」
「そうです。どうしたんですか、先生」
 少し落ち着きを取り戻した安達凛子は、スピカと名乗る少年や、美穪子の姿をみて、目を白黒させた。瀧本からしてみれば、夕方、安達凛子との面談を終えたばかりだったので、帰宅したばかりの彼女の部屋に押し掛けたような気分になった。だが、目の前にいる安達凛子が本物だとすれば、これは安達凛子の意識の中であって、ここは彼女の部屋そのものではない。
「突然すみません、安達凛子さん。僕の名前はスピカと言います。突然押し掛けて、非礼をお詫びいたします」
 安達凛子はスピカと名乗る少年に対しては、どう対応して良いか分からないようで、やはり目を白黒させている。
 安達凛子は、テーブルの向かい側にぐったりと横たわっている、大きな人形のようなものをかばうような仕草を見せた。
「安達凛子さん」とスピカと名乗る少年はゆっくりと語りかける。「その方を、見せて頂けませんか」
「その方?」と瀧本は言う。スピカと名乗る少年が言っているのは、人形のことだろうか。
 よく観察してみると、人形には、顏がなかった。ショッピングモールか何かに置いてあるような、マネキン人形だった。
「なんだ、それは?」
 安達凛子は椅子から立ち上がり、瀧本のほうへ向き直った。
「先生、紹介します。こちらが、先日お話した、先輩です」安達凛子は笑顔を作って、言った。「仁科先輩と言います」
 瀧本は、その人形に、仁科和人の面影を見いだした。

(川嶋美禰子 前編へつづく)


サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。