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「きみはオフィーリアになれない」 川嶋美禰子 後編 #117

 美穪子は自分の手首が白くなっていることを思った。そして、「向こうの世界」で、スピカと名乗る少年が言っていたことを。肉体にかかる負荷が大きすぎる、と彼は言っていた。おそらく、この手首が白く変色していることと無関係ではないだろう。「向こうの世界」と、「こちらの世界」を行き来することで、どんどん身体が浸食されていくのだろうか。
 だが、それでも「向こうの世界」に行きたいという感情が消えなければ、何度でも、何度でも魚の毒を摂取し続けるだろう。その果てには、一体何が待っているのだろうか。
「安達さん、聞いてください。伝えたいことがあります」
「え?」
 安達凛子は驚いた表情をした。
「『あちら側』の世界に行っては、いけません」
「…………」
「その手首の傷。痛むんでしょう? 私だってそうです。身体への負担が大きいんです。何度も行き来したら、どうなるかわかりませんよ」
 安達凛子は肩で息をしながらじっと美穪子の目を見つめている。美穪子を押さえていた手を離して額の汗を拭った。そして、自分の手首を見やり、また視線を美穪子に戻す。
「『向こうの世界』に行ったら戻って来なきゃいいってことじゃないの?」
「いえ、違います。同じことなんです。いまの安達さんが『向こうの世界』に行こうが行くまいが、必ず、こちら側に誰かは取り残されるんです」
「誰か?」
「安達さん自身です。『あちら側に行けなかった安達さん』が残るんですよ。こちらの世界に」
「でも、いまここにいる「私」は行けるわけでしょう?」
「そうです。でも、またこちらにいる安達凛子さんが『魚』の毒を使って向こうに行こうとする。でも、必ず、こちらには残るんです。こちらに残る人が抵抗する限り、それは終わりません」
 安達凛子は顏を歪め、じゃあどうしたらいいのよ、と叫んだ。安達凛子は、あの仁科という男を愛していたのだろうか。安達凛子を見ていると、愛、という感情とは少し違うような気もする。少なくとも、いまの美穪子には、それほどの犠牲を払ってあの仁科という男に会いたいという気持ちは理解できなかった。
 だが、その対象を瀧本に置き換えたら。
 そして今、美穪子が置かれている状況は、安達凛子のそれと何も違わないのだから……。
「とにかく」と安達凛子は言った。「あの『魚』は返してもらいます。ここにある理由がもうないもの」
「あ……」
 待って、と言おうとしたが、声は出なかった。本当は、自分も、向こうに行くことを欲しているのか。
 だが、と思い直した。そうだ、同じなんだ。『魚』の毒で浸食されて死のうが、瀧本が現実世界で死のうが、同じことなんだ、だったら、いまの私が『魚』を使って『向こうの世界』に行ったほうが、よっぽどいい。今の状態のまま、何もできないで先生の死を待つぐらいなら……。
 安達凛子が立ち上がり、背を向けて水槽のほうへ歩いていくのを目で追い、美穪子も立ち上がった。 安達凛子は迷いのない足取りで水槽の前まで歩いていくと、そこで立ち止まった。
 何か言わなければ、と美穪子は思った。声を出そうとするが、掠れるばかりで、声にならない。

(つづく)


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