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「きみはオフィーリアになれない」 川嶋美禰子 後編 #122

 自分がいる場所がわからないから、帰ることもできない。電車に乗ろうにも、駅の名前もわからない。お金も持っていないし、おまけに靴もない。
 美穪子は力が抜け、その場に座り込んだ。
「どうしましたか?」
 気付くと、人に囲まれていた。顏を上げると、警察官だということがわかった。しかも、三人もいる。中年の警官二人と、若い警官で、話しかけてきたのは若い警官だということがわかった。
 美穪子は黙って俯いている。
「立てますか?」
 警官はさらに話しかけてくる。若い警官は、かがみ込んで、美穪子を覗き込むようにして話しかけてくる。裸足でこんな場所にいるから、声をかけられたのだろう。
 美穪子は耳を塞ぎ、目を瞑った。どうして、知らない人が話しかけてきたりするのだろう。何かの間違いではないか、ここは自分の意識の中ではないのではないか、と思った。しかし、それならなおさら、瀧本クリニックに自分の居場所がないことの説明がつかなかった。
「ちょっと、いいですか。離れてください。その人、自分の連れなんですよ」
 また別の男性が現れ、警察官に話しかけている。ちょうどライトを背にしているため、顏を見ることができない。警察官は、今度はその男性に向き直り、何か会話を交わしていた。
 しばらく何か会話を交わしていたが、警官たちはその場を離れていった。男性はポケットに手を突っ込んだままこちらを見ている。顏に見覚えがあった。
「ずいぶん遠くまで来たね」
 男性の声を聞いて、その人が函南と呼ばれている人だということがわかった。美穪子はかすかに首を動かすようにして頷く。
「その足でここまで来たんですか。痛かったんじゃない。こっちに来てください。靴ぐらい、なんとかしてあげる」
 函南は駅のほうに向かって歩き出した。歩く先に、ハザードランプがついた赤いスポーツカーが停まっている。函南がそのそばによると、鳥の羽根のように扉が開いた。
「さあ、そんなところに座り込んでてもまた警察が来るだけだよ。おいで。悪いようにはしないから」
 美穪子は少し迷ったが、ヨロヨロと立ち上がった。途端に、素足の傷がジリジリと痛む。函南が立っている場所は五メートルも離れていないはずだが、ものすごく遠い距離に感じられた。
 美穪子は恐る恐るといった感じでツーシーターの車に乗り込む。函南は、それが当然だと言わんばかりに、運転席側に回ると、ドアを閉めた。
 低いエンジン音が響き、車は走り出す。先ほどはあんなに明るく見えた商店街がどこか薄暗く、古びたもののように見える。函南はしばらく両手でハンドルを握ったまま、沈黙していた。
「どこに向かっているんですか?」
 勇気を出して、美穪子は尋ねた。函南は、それでも何も話さない。
「うちの会社。とりあえずそこに行けば、なんとかなるからね」
 車で男性と一緒の車に乗るのは初めてだ、と美穪子は思った。瀧本とだってそんな経験はない。
 函南はなぜか、ずっと沈黙している。

(つづく)


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