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「きみはオフィーリアになれない」 安達凛子 前編 #021

 二人のあいだに流れる沈黙をかき消すように、凛子は覚悟をきめて奥歯を噛み締めた。
「先生は、『白い魚』のことをご存知なのですか?」
 瀧本は、凛子をじっと見据えたまま、微動だにしない。ややあって、「魚?」と低い声で聞き返した。
 瀧本は何も知らないのかもしれない。本当は、梶本自身に問いただすべきだったのではないか、瞬間、そう後悔したが、時はすでに遅かった。瀧本は口をひらくと、「魚って、なんのことでしょうか?」と凛子に質問をしていた。
 あとに引けなくなり、凛子は説明を開始する。とある人から、白い魚を譲り受けたこと、その魚に噛まれてから、自分が不思議な体験をしたこと。その世界で、エイジと名乗る少年と話したことは伏せた。だが、その世界で、先輩だと思われる「影」の存在は話さざるを得なかった。瀧本の反応は、彼があらかじめそのような情報を知っているのか、知っていないのか、わからないものだった。彼はただ凛子の話す内容に傾聴し、的確なタイミングで相づちを打ってみせるだけだった。
「それは、幽体離脱と呼ばれる現象かもしれませんね」と瀧本はぽつりと言った。
「幽体離脱ですか?」凛子は聞き返す。
「精神だけが肉体を離れて、自由に動き出す。あたかも現実の世界にいるように感じ、現実であるかのように知覚することができる。動物が本来もつ能力のひとつでもあります。実際に自分の目で見ているわけではないのに、全容をイメージし、足りない部分を脳で補完する。
 そもそも、我々が感じている現実というものは、情報としては不完全なものです。目で見たり、耳で聞いたり、肌で触れたりした部分的な情報をもとに、足りない部分を脳で補完し、あたかも目の前で起きていることが『現実』だと錯覚しているにすぎません。いま、こうして、僕とあなたがしゃべっているこの部屋も、現実世界である保証はどこにもありません。あなた自身の夢かもしれないし、僕の夢のなかにあなたが紛れ込んでいるのかもしれない。あなたがこれを『現実』だと感じている、それが現実のすべてです」
「ここが、現実世界である保証はない?」そう聞き返すと、瀧本は軽く咳払いをした。
「失礼しました。変なことを言っているとお感じでしょうね。あくまでもそれは究極のたとえです。つまり、あなたが紛れ込んだと感じた世界は、夢のようなものだということです」
 夢のようであって、現実ではない。凛子も、最初はそう感じた。だが、エイジと名乗る少年は、一体誰なのか? あれも自分の妄想にすぎないのか。それを瀧本に話そうと思ったが、なかなかうまく言葉にできない。
 そう思っているうち、あんなものは証拠になどなりはしないのだ、そんな声が自分の内側から聞こえてきた。
 こうなってくると、もはや答えはでない。同じ問いを延々と考え続ける、禅問答に近い。
「どこでそのようなものを手に入れたのかはわかりませんが、ある種の幻覚作用をもつ毒性を保有する種のひとつなのかもしれませんね。魚で、そのような毒性をもったものがいる例はあまり知りませんが、ありえないことではありませんね」
 凛子は呆気にとられて、何も言えなかった。
「どのような経路でそれを入手したのかは私の職務外ですから問いません。しかし、このことは、誰にも口外しないほうがいい、そのように感じます。そのことは忘れて、ただ普段通りに生活することをお勧めします」
 凛子が言葉を紡がなくなっても、朗々とした口調で瀧本は語る。むしろ、その語りが途切れることがないのが不自然なようにも思えた。
 だが、少なくとも瀧本は何も知らない。そう確信した凛子は、梶本の夢に関しても、もはや質問する気力は残されていなかった。
 結局、瀧本との出会いは、あの体験は夢のようなものだった、と結論づけただけだった。それで十分だ、と割り切るべきなのかもしれなかった。
 凛子は会話を打ち切り、瀧本に暇を告げた。瀧本は寂しそうな表情を見せたが、エントランスまで送ってくれた。凛子が振り返ると、川嶋嬢と並んで立つ瀧本の姿があった。

(『安達凛子 後編』へつづく)


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