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「きみはオフィーリアになれない」 川嶋美禰子 後編 #118

 安達凛子はゆっくりと振り返ると、じっと美穪子の目を見た。そして、美穪子の手首に目をやる。次に安達凛子が何を言い出すのか、美穪子はわかったような気がした。
「ねえ、行っちゃおうか、いま、ここで。よくよく考えたら、『魚』を奪い合う必要なんてどこにもないわけよね。お互い、やりたいことはおんなじなんだし」
「『魚』は使っちゃいけないって、さっき……」
「いいじゃない、もう、そんなの。またここで私たちが倒れて、それでまた『魚』の毒に噛まれても。『今』の私たちは救われるわけだから。それで十分じゃない?」
「でも、安達さんは、そんな……」
「何?」
「安達さんは立派な社会人なのに、どうして……」
 安達凛子は口元だけ歪めて、笑った。
「私が立派? そういう風に見える?」
「見えます」
「立派なわけないじゃない。いまやってることって、強盗みたいじゃない?」
「いえ……」
 安達凛子は少し落ち着きを取り戻したようだった。美穪子も急速に心が落ち着いていくのを感じた。先ほどまでの心の高ぶりはどこかへと消えてしまった。
 急に安達凛子が押し黙ってしまい、美穪子は途方に暮れた。じっとその顏を見ていたが、何を考えているのかわからない。
 安達凛子のことはほとんど何も知らないに等しい。こないだクリニックで会ったのが最初だから、ほとんど初対面のようなものだ。だが、私たちには共通の知り合いがいる。仁科さんだ。美穪子は、安達凛子が感じているほどに、仁科さんに親しみを覚えていないし、仁科さんに、特別な感情を抱いたこともない。線が細くて、それでいて尊大な、不思議な人だった。誰からも好かれるような性格ではないだろう。線が細いが故の弱さがどこか透けて見える人だった。
 安達凛子は、あんな彼のどこにそんなに惹かれたのだろう。同じ人間をみても、ここまで違うものだろうか。
「会いたいんですか、そんなに」頭で考えていた言葉が口に出てしまい、美穪子は驚いた。「仁科さんに、会いたいんですか」
「え?」
「そうじゃないんですか。仁科さんに会いたいんじゃないんですか」
「先輩を、知ってるの?」
「知ってますよ、もちろん」
 安達凛子は驚いた顏をした。まさか、知らなかったのだろうか。「どうして。どこで、知り合ったの」
「だって、仁科さん、クリニックに通院してましたから」
「通院してた? 先輩が?」
「……ご存知なかったんですか? もうずいぶん前からですよ。もっとも、そんなにひどい症状ではなかったようですけど」
「……知らなかった。なんでそんなことを言ってくれなかったんだろう、先輩」
「心配をかけないようにと……」
「あなたに何がわかるの」
 子どもみたいだ、と美穪子は思った。誰だって、他人のことを完全に理解することなどできないのだ。自分の思いもよらないような、相手の側面が見えることだってある。そんなのは、当たり前のことではないか。
 同時に、安達凛子のことを見ていると、まるで自分のことを見ているようだ、とも感じた。そうだ、私たちは同じなのだ。大切な人を失った存在、大切な人を失いつつある存在、そんな二人なのだから……。

(つづく)


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