見出し画像

「きみはオフィーリアになれない」 瀧本達郎 前編 #050

 その日から兄は猛勉強をはじめた。うちには学習塾に通うだけの余裕はなかったので、学校の熱心な先生に放課後、自習してわからないところを聞きに行ったりしていたようだ。瀧本と兄は小学生の頃から同室だったが、瀧本よりも早くに兄が寝ることはなかった。兄は壁に勉強の計画表を貼り出していた。見ると、いまの自分の学力のレベルから、志望校のレベルに到達するまでの計画が、事細かに記されている。そして、その表を見る限り、それは予定通りに進行しているようだった。その場限りの勢いではなく、兄は本当に志望校に行こうとしているのだ、と思った。
 翌年、兄は本当にその志望校に合格してしまった。瀧本の住んでいた町では、地元で職を見つけるか、隣町で就職するか、せいぜいそのさらにちょっと遠くにある、レベルのあまり高くない高校に進学するぐらいが関の山だったが、東大生も多く輩出しているような、県下でトップクラスの高校に進学したことで、狭い町では大きな話題になった。まさかあの史朗が、あの高校に進学するなんてなあ。みんな口々にそう言い、瀧本はちょっとだけ誇らしい気持ちにもなった。なにか心が入れ替わるような出来事もあったのか。町で瀧本の姿を見かけると、地元の人は口々にそう問いかけてきたが、何が兄を変えさせたのか、瀧本にもわからなかった。
 兄は進学と同時に、家を出て、下宿をすることになった。同じように、田舎から進学してきて一緒に下宿する他の学生たちと、共同で生活するのだそうだ。新聞配達のアルバイトをして、学費と寮費の足しにすると兄は言っていた。春、両親は兄と下宿先で暮らすための準備をしにその町へ出て行った。がらんとした部屋の中で、瀧本は、兄はおそらく、二度とここの部屋には戻ってこないだろう、と思った。小学生の頃から、この町を出て隣町に行っていたような兄は、ついに自分の足でこの家を出ていったのだ。スクーターで町を駆け回っていただけの、幼稚な反抗はもうそこにはなかった。
 兄は世界の仕組みを知ったのかもしれない。
 世界には、世界を変える資格のようなものがあって、まずはそのチケットを掴まなければ、何も変えることはできないのだ、ということを。
 兄は、勉強をすることが、その別の世界に行くためのチケットだとある日突然気付き、そのチケットを取るための勉強をはじめたのだ。そのエネルギーは誰にも止めることはできなかった。両親がそれに気付いているかどうかはわからない。
 だが、瀧本には、兄はただこの町を出たかったのだろう、と気付いた。
 その手段を知ってしまっただけなのだ。
 瀧本の予想は当たり、兄は家には滅多に帰ってこなかった。お盆休みにちょっと顔を見せたが、実家ではすることもなく、居心地が悪そうだった。兄は正月も、補講がある、年賀状配達のバイトがあると行って戻らなかった。たまに電話で話す母の背中を見ることがあった。たっちゃん、お兄ちゃんだけど、電話に出る? と母は訊いたが、もはや兄弟とはいえ何を話せばいいのかもわからない。そのたびに、瀧本は首を横に振った。
 そんな折り、ある夕方に家に帰ると、ポストに一通の封筒が入っていた。表面に、瀧本達郎様、と宛名が書いてあり、裏面の差し出し人を見ると、伊崎かんな、とサインペンで記してあった。
 瀧本の手が震えた。

(つづく)



サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。