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「きみはオフィーリアになれない」 安達凛子 前編 #019

 落ち着いた口調の瀧本が語り出すと、意味を咀嚼するよりも先に、ひとつの音楽を聞いているようで、次第にリラックスしてきた。凛子が口をはさまなくても、瀧本は落ち着いた口調で続きを語り出している。
 時間の捉え方が長い。個々人の過ごした、たかだか数十年の歴史など、無視してしまえるぐらいの長さ……。
 自分と先輩の過ごした時間は、どれぐらいだったろう。出会った頃から数えても、まだ十年も経っていない。出会ったばかりの頃と比べると、自分も先輩も年をとった。はじめは子どもだったかもしれないが、大人になった。まだ本当の意味では大人とは言い難いかもしれないが、とにかく、自分で生きていくことができるだけの年齢になった。自分には、まだ人に誇れるようなものは何もないが、とにかく、時間が経って大人になったのだ。これからも、年を取り続けていくだろう。
 だが、先輩は、死んでしまった。
 先輩の歴史は、そこで終わる。たったの、二十数年間で、先輩は、自分の歴史に終止符を打ってしまった。
 先輩は、このまま、みんなの記憶からも消えてしまうのだろうか?
 私が忘れたら、先輩は永遠にいなくなってしまうのだろうか?
 顔をあげると、瀧本がにこやかな顔のままこちらを眺めている。不意に、凛子は見られてはいけないものを見られてしまったような、そんな、ばつの悪さを感じた。
「先生、死んだ人に会うということは、あるのでしょうか」
「死んだ人に?」
「そうです、もう死んでしまった人に、会うことは、できるのでしょうか」
「そうですね、死者に会う、というのは、決してありえないことではありません。古来より、夢枕に死者が出てくる、という話は多くあります。あなたが望めば、不可能ではありません。誰か、会いたい人がいるのですか?」
「いえ……違います。私も、実際に、その夢を見たんです」
「いつですか?」
「昨日です」
「それは、あなたのお友達なのですか?」
 言葉をひとつひとつ区切るように、丁寧に瀧本は発声した。まるで、小さな子どもに言い聞かせているような口調だった。
「はい、そうです」
「とても大事な友達だったのでしょうね」
「はい、とても大事な、友達、でした。いまは……どこにも……」
「……どこにも?」
「どこにも……」
 急に視界が歪み、一粒の涙が頬を伝った。小さな頃から、幾度となく涙を流してきたが、こんなに感情を揺さぶられずに流す涙ははじめてだった。まるで泉から湧く天然の水のように、自然に、音もなく凛子の眼球から溢れ出した。にじむ視界の向こう側に瀧本は変わらずにいて、真剣な、穏やかな眼差しでその様子を見守ってくれている。もちろん、凛子と瀧本のあいだにはテーブルをはさんで物理的な距離があったが、この空間にはふたりだけしか存在しなかった。凛子は、泣いていいんだ、と耳元で囁かされたような気がした。
 その瞬間、止めどない感情に凛子は揺さぶられた。堰を切ったように、次々と水が溢れ出してくる。瀧本は、その様子を変わらない穏やかな表情で見守り続けている。凛子は、自分がたとえここで何をしても、瀧本はただ自分のことを見守り続けてくれるだろうと感じた。その安心感が、部屋全体を包み込んでいた。

(つづく)


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