見出し画像

「きみはオフィーリアになれない」 川嶋美禰子 後編 #114

 玄関のカギを開け、ドアをゆっくりと開く。目を丸くしてこちらを見ている顔があった。安達凛子だった。てっきり郵便か何かだと思っていた美穪子は言葉を失い、固まってしまった。だが、来訪した安達凛子自身も美穪子が出てくることが意外だったようだ。お互いに沈黙し、一瞬、気まずい時間が流れた。
 いま何時なんだろう、とふと美穪子は気になり、反射的にリビングにある時計を見やった。まだ十二時を回ったばかりだ。先生はいまごろ、お昼休みを取っている頃だろう、とのんきなことを考えた。安達凛子はずっと沈黙したままだったが、やがて口を開いた。
「先生は……」
「先生?」と美穪子は聞き返す。もちろん、先生といえば瀧本だということぐらい、わかっている。
「先生は、いらっしゃいますか?」
「先生は、いまはこちらにはいらっしゃいません」
「瀧本先生に、会わせて」安達凛子は苛立ちを抑えるように、低い声でそう繰り返す。
「ですから、いらっしゃいません、と……」
「いいから!」安達凛子が叫んで、美穪子はびっくりした。身体が強張り、手が震えた。
「あの、私、ちょっといま手が離せなくて、ごめんなさい」美穪子がそう言って扉を閉めようとすると、待って、と安達凛子が大きい声を出したのでびっくりした。他の階にも響き渡るのではないかと思うぐらいの声だった。
「いいの、先生はあとでいいの、そうじゃなくて、先生にお渡ししてたものがあるんです、それを返してもらいたいだけなの」
「ちょっと、困ります、先生もいないのに、そんな」
「大丈夫です、先生にはお渡しするときに、ちょっと預かってもらうだけだから、って言ってあるものなんです。あとで、先生には私からお話しておきますから」
 安達凛子は強引に部屋の中に上がり込んできた。美穪子は止めようとしたが、力が強く、止まらない。安達凛子は履いていたスニーカーを玄関に脱ぎ捨て、部屋の中にどんどん入って来た。美穪子はどうすることもできず、ただあとをついていく。
 安達凛子は『魚』の前で止まった。前に来たことがあるからか、その動きに迷いはなかった。
「ちょっと、安達さん」
 安達凛子の目は『魚』に釘付けになっている。安達凛子は、前回来たときと同様、手にキャリーカートを抱えていた。そこに『魚』を入れて持って帰るつもりなのだろうか。
「ちょっと、安達さん、困ります。先生もいないのに、そんな」
 美穪子も必死で安達凛子を制止する。いま、魚を持っていかれたら。さっき、自分が考えていたことも、永遠に叶わなくなってしまう。瀧本が、遠くに行ってしまう。
「安達さん!」
 安達凛子の耳元で必死で叫ぶ。美穪子のそんな声にはっとしたように、凛子は目を見開き、まっすぐに美穪子のほうを見据えた。瞳孔が開かれ、驚きの表情を浮かべている。
 その目が、「魚」に向き、そして、美穪子の腕へと移った。美穪子は、咄嗟にさっと腕を隠す。だが、凛子にすぐに手首を掴まれてしまった。
「この傷は……、もしかして、噛まれたの。あなたも」
「これは……」
「つまり、そうよね。噛まれたのよね。だって、これ、あたしのものと全く同じだもの。ねえ、そうなのよね」
 安達凛子は左手で、右手の手首に巻かれていた包帯をほどいた。美穪子と同じように、手首には「魚」に噛まれた跡があり、その周りが真っ白に変色していた。

(つづく)


サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。