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「きみはオフィーリアになれない」 安達凛子 後編 #023

 マンションのエントランスの脇に自転車置き場があり、その横に女がひとり立っていた。はじめ、その自転車置き場に置いてある自転車に乗ろうとしているのかと思ったが、女は直立したまま動かないので、近づいたときに、異変に気付いた。女は傘もささずに、自転車置き場の脇に立っている。凛子は不審に思い、あまりかかわり合いにならないほうがいい、とそそくさと通り過ぎようとした。
「あら」
 女が唐突に、何か珍しいものでも発見したような、甲高い声をあげた。声のトーンがあまりにも日常的なもので、しかも明るかったので、逆に凛子はぎょっとした。振り返るまいと思ったが、つい顔を女のほうに向けると、小さく声が漏れた。
 女は美奈さんだった。ジーンズにTシャツで、髪も後ろでまとめているだけの格好だったので、近づくまでわからなかった。研究室にいるときの美奈さんは、いつもワンピースかロングスカートを履いていたので、そんな格好をしているだけでずいぶんと印象が違った。あと、昔は髪型がショートヘアが多かったが、いまはだいぶ髪が長くなっていた。数日前に先輩の葬儀で会ったときよりも、さらに印象は違っていた。何よりも、凛子のマンションのエントランス脇にいるという状況が不自然だった。
「凛子ちゃん? あら、どうしたの、こんなところで」
 あきらかに様子が普通ではなかったが、声のトーンは、凛子の知るそれと同じだった。それが、不気味さをより際立たせていた。
「あ、美奈さん」
 いま気付いた、という風を装いながら、小声で返事をすると、美奈はその場から動かず、にっこりと微笑んだ。雨が降り注いでいるせいで、シャツはべっとりと身体に張り付いている。
「奇遇ね、こんなところで会うなんて。凛子ちゃん、この近くに住んでるんだっけ?」
 自転車置き場からエントランスのほうを見ていたのだから、凛子が出てくるところを注視していたことになる。だが、あきらかに様子がおかしい美奈に対してそういった当たり前の返答をすることが怖くて、そこから駆け出してしまいたい衝動に駆られた。しかし、買い物が終わったら当然ここに戻ってくることになるので、結局は同じことだろう。凛子は、なぜこのタイミングで買い物に行こうと思ったのだろう、と後悔したが、こんなことを予測できるわけがない。
「あ、あの……」
 上擦って声がうまく出せない凛子を遮るようにして、美奈は続ける。
「近くを歩いてたら、凛子ちゃんに似ている人がいるから、あら、と思って。そっかー、ここに住んでるのかぁ。けっこう良さそうなマンションね、ここ。駅からも近いし。ひとりで住んでいるの?」
「美奈さん、そこだと濡れちゃいますよ。とりあえず軒下に入ってください」
「いいの、いいの。歩いてたら突然降ってきただけだし。それに、別に濡れてもなんてことない服装だし」
「風邪ひいちゃいますよ、そこだと。お願いします」
 とりあえずもと来た道を戻り、マンションのエントランスに入った。エントランスの明かりの元に立つ美奈は、まるで別人のように変わり果てていた。姿形がどうとかいうわけではなく、服装もそうだが、纏っている雰囲気のようなものがガラリと変わっていて、まるでまったく別の他人が、似た顔のお面をつけているみたいだった。お面のように張り付けられた笑顔を絶やさないところに、凛子は恐怖を覚えた。この人は、いったい何をしに来たのだろう。そもそも、どうやってここがわかったのだろうか。

(つづく)


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