見出し画像

「きみはオフィーリアになれない」 瀧本達郎 後編 #081

 美穪子の分身、つまり、動いている美穪子とは別の、眠ったままの美穪子は、瀧本は見ることができない。ということは、瀧本の分身も、美穪子には見ることができないのだろうか。
「美穪子、ここに誰がいるか、わかる?」
 瀧本は自分の分身を指差しながらそう訊いてみたが、美穪子は、質問の意図がわからない、というように首を傾げるばかりだった。お互いの分身は見ることができないらしい。
「ここに僕の分身がいるんだ。美穪子には見えないかもしれないけど、確かにいる。逆に、僕には美穪子の分身を見ることができない。そういうことみたいだね」
「どういうことですか?」
「お互いの分身は見れない、ってことだ」
「意味がわかりません」
「僕だってわからないよ」
「だって、先生がいま、そうおっしゃったんじゃないですか」
「僕はただ、自分が体験していることをそのまま客観的に分析しただけだ。これがどういう状況なのかはわからないよ」
「変な先生。何を言ってるのかわからないわ」
 美穪子はそう言って口を尖らせた。こんな状況なのに、他愛もない会話を交わしている自分たちが不思議だった。だが、ここは夢というにはあまりにも鮮明で、寝付けない夜に美穪子と二人で世間話をしているような、そんな錯覚に襲われた。
 それはですね、という声がどこからともなく聞こえた。瀧本が顏をあげると、リビングの向こう側、玄関のある廊下側に、パーカーを着た少年が立っていた。 
 スピカと名乗る少年だった。
「それはですね、先生。先生と、川嶋さんは、同じ空間にいるようでいて、実は全く別の時空にいるからなんですよ。同じ空間にいるように、錯覚してるだけです。同じ場所にいて、同じものを見ているようでいて、実はぜんぜん違う空間にいる。違うレイヤーの住人なんですよ」
「どこから入ってきた?」
「どこから、って、もちろん玄関からですよ。部屋には玄関から入るものでしょう?」
「お前も『魚』を持っているのか?」
「持っているといえば持っているし、持っていないといえば持っていません。仁科さんからいろんな話を聞いているかもしれませんが、あの人は完全な情報を持っていたわけではありません。たとえば、僕のような存在を、彼は死ぬ直前まで知らなかった。彼が知らなかった情報は、もちろん、安達凛子も知らないわけです」
 美穪子はいつの間にか瀧本の後ろに隠れて、ぎゅっと服を掴んでいた。初対面の人間に対する対人恐怖はなかなか克服できない。ましてや、ここは何が起こるかわからない、夢の中だ。怖いのは瀧本も同じだったが、瀧本はいうと、美穪子がそばにいることでそこはかとない安心感を感じていた。
「入ってもいいですか、瀧本先生」
「もう入ってるだろう」
「いいえ、まだ入ってませんよ、僕は。入ってるように見えますか?」
「どう好意的に見ても、この部屋に土足で入り込んでるように見えるけど」
「じゃあ、もう先生としては入ってるのと同じということで。失礼させて頂きますね」
 スピカという少年はそう言うと、靴を脱いで部屋の中に上がり込んできた。その瞬間、今までぼんやりとしていた少年の輪郭がはっきりしてくるような、そんな感覚を覚えた。

(つづく)


サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。