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「きみはオフィーリアになれない」 安達凛子 後編 #026

「シンプルな部屋だね。魚がいるだけで、他に何もないなんて、ほんとに凛子ちゃんの部屋だな、って感じがする」
「物がごちゃごちゃしてるの、苦手なんです。片付けをするのも面倒だし」
「あの人とは対極だね。ほんと、学生の頃から机の上はゴチャゴチャ。下宿先にも、いろんな趣味のコレクションが集められててさ。そんなにお金もなかったはずなのに、大人買いだ、とかいって、くだらないオモチャばかり買って」
「男の人って、そういうものなんじゃないでしょうか」
「でもね、いなくなってしまったら、そんなの、ただのガラクタだから。持ち主がいなくなれば、ただのガラクタだから。いくら残された人が後生大事に持ってたって、何にもならないのよ。もう大部分は、捨てちゃった。それでね、部屋の中がスッキリしちゃって、別にそんなに広い部屋でもないんだけど、あの人が居たっていう痕跡すらなくなっちゃったような気がして、それでなんだか、心に穴が空いたみたいに、不安になって……」
 早口でまくしたてる美奈にどういう言葉をかければいいのかわからなかった。
「凛子ちゃんの部屋に行けば、一緒に写ってる写真のひとつもあるかと思ったけれど、どうやらそれもないみたいだし」
 気付いていたのか、と凛子は思った。自分と、先輩との関係を。といっても、何も後ろめたいことがあるわけではない。たまに、二人だけで食事をしたりしていただけだ。あくまでも、友人同士として。
 あの、と凛子が言葉を紡ごうとすると、美奈はそれを制するように、小声でまくしたてはじめた。
 いいの、いいの、ぜんぶ、わかってるから。あたしじゃ駄目なんだってことぐらい。あの人のそばで、ただニコニコしているだけじゃ駄目なんだってことぐらい。あの人には、拠り所が必要だったの。精神的な拠り所が。自分が向かうべき方向を示してくれて、自分がやりたいことを一緒に指し示してくれる人が。あたしじゃ駄目だったのよ。本当に……。
 やっぱり家に入れるんじゃなかった、と凛子は思った。冷たいようだが、先輩がいなくなってしまった以上、美奈がここにきてもできることは何もない。そして、自分がしてやれることも、何もない。
 それどころか、そうやって自分の感情を、思うままに、他人に吐露できる美奈に対して妬みにも近い感情が生まれた。そうやって、他人に、自分の感情に任せて気持ちをぶつけることなど、自分には、到底、できない。
「……この子」と美奈は言い、水槽の中の魚を指差した。「あの人のよね? 間違いないわ。もらって帰るわね」
 凛子は言葉がでなかった。美奈がこの部屋に来た時点でそうなることを予期していたはずだったのに、言葉が出てこなかった。
「いえ」と凛子は、なるべく落ち着いた声で言った。少しだけ、声が震えていたかもしれない。「それは、先輩のではありません」
「嘘。あたし、わかるわ。これは、函南社長のものよ。あの人が、社長からもらったんだわ。間違いないわ、この目でハッキリみたもの」

(つづく)


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