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「きみはオフィーリアになれない」 安達凛子 後編 #028

 コール音がかすかに聞こえる。
 美奈から携帯電話を取り上げることは可能だろうか、と思った。だが、美奈の抵抗を押し切って取り上げることができるとは思えなかったし、それに、そんなことをしたら、自分が嘘をついていることを認めることになる。コール音が鳴り響く時間が永遠にも感じられたが、凛子はどうすることもできなかった。
 何度コール音を鳴らしても、函南社長は出ないようだった。凛子はほっと胸を撫で下ろしたが、美奈は急にぐったりと脱力し、どうして、と呟いた。
 美奈はうなだれた状態のまま、リビングを突っ切り、玄関のほうへと向かった。凛子は、このまま帰るのだろうか、と思った。
 美奈はダイニングの前で足を止めると、壁にかけてあった包丁を手に取った。
「この泥棒猫が……」
 低くうめくように叫んだ。テレビドラマ以外で、泥棒猫なんて言葉を聞いたのははじめてだな、と凛子は場違いなことを考えた。
 じりじりと美奈は包丁を構えたまま、間合いを詰めてくる。どうして、と凛子は思った。どうしてこんなことになったのだろう。皆が傷ついている。
 ふと、外に降っている雨音が耳に突き刺さるような感じがした。気付けば、大声で叫び声をあげていた。

「どうしたんですか、そんな荷物を抱えて。さあ、そちらにどうぞ」
 診察室の中へ入っていくと、瀧本は変わらない笑みを浮かべていた。満面の笑みという感じではなく、口端をわずかに持ち上げて、微笑んでいる、といった表情だ。以前とまったく変わらない光景に、凛子は心が落ち着いていくのを感じた。
 あの事件からひと晩が経っていた。美奈に包丁を向けられた凛子は叫び声をあげ、それを聞きつけた隣室の住人が駆けつけた。四十がらみの体格のいい男性で、ご近所づきあいというほどのものはなかったものの、通路ですれ違うと会釈を交わすぐらいの面識はあり、たまたま外出先から帰って来たところに叫び声を聞きつけ、異常を感じてドアを開けてくれたのだ。ちょうどそこに居合わせた別の住人も加勢し、二人がかりで美奈を取り押さえた。刃物を振り回すことで美奈はさらに興奮状態になり、まともに口が聞けるような状態ではなかった。男二人が力づくで押さえつけているあいだに、凛子が自分の電話で一一〇番通報し、およそ十五分後に到着した警察官によって美奈は取り押さえられた。
 美奈は数回、凛子に向かって刃物を振り回したが、幸い、凛子にケガはなかった。被害も、部屋にあったティーカップが床に落ちて割れただけだ。美奈には器物破損にくわえて殺人未遂の容疑までかかったが、事が大きくなることを避けて凛子はすべての被害を取り下げた。騒ぎがおさまりかけた頃、父親から携帯電話に着信があった。だいじょうぶなのかと聞かれ、本当は普通の精神状態ではなかったが、だいじょうぶと返答した。また休みができたら帰ってこい、そう言い残して父親は電話を切った。両親は凛子が高校生の頃に離婚し、以後、凛子は父親と一緒に暮らしていたが、もともとあまり家に居着かない人で、大学に進学してからは凛子もあまり家に帰らなくなり、ほとんど会話らしいものはなくなった。帰ってこい、というが、実際に実家に帰り、父親とふたりで何を話せばいいのかわからない。今回の電話も、本当に心配しているというよりは、警察から連絡があったから、とりあえず電話をした、というようなニュアンスだった。

(つづく)


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