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「きみはオフィーリアになれない」 川嶋美禰子 後編 #120

 玄関のドアを開けるのも恐ろしかったが、ここから出ないことには何もはじまらない。美穪子はドアノブを手に取ると、ぐいと捻った。
 だが、ドアはびくともしない。ドアが硬いのではなく、ノブそのものが固定されているように、全く動かないのだ。カギがかかっているという感じではなく、はじめから開けられるようにできていないように、まるで手応えがなかった。
 前回、ここから元の世界に戻ったときのことを思い出した。安達凛子の鬼のような形相。ここから逃がさない、という抑えた声。そうだ、こちら側にいたとき、自分は閉じ込められていたのだ。
 外に出たい。外に出て、瀧本に会いたい。
 この家は確かに自分の居場所だが、ずっとここに居たって、出来ることは限られている。とにかく、この部屋から出なければ。何も変えることはできないだろう。
 美穪子はそう願いながら、硬くなったドアノブを渾身の力でひねり続けた。かすかな手応えがあり、力を入れ続けると、カチャ、という乾いた音がして、ドアノブが開いた。
 ドアの外に広がっていたのはよく見知った風景だった。靴を履き、廊下を歩く。ここが夢だという感覚がなくなってくる。エレベーターホールまで歩いて行き、ボタンを押す。すぐにドアが開いた。
 エレベーターで一階まで降りた。見慣れたビルのエントランスがあり、外に続くガラスのドアが見える。外に出ることはできるのだろうか。美穪子がドアに向かって歩いて行くと、通りを行き交う人がちらりとこちらを見た。みな、美穪子の知らない人たちだ。
 自分の知らない人がいるんだ、と美穪子は驚いた。自分の意識の中なのだから、全員知っているものばかりだ思っていた。
 クリニックはどうなっているのだろう? 美穪子は踵を返し、足早にエレベーターへと戻った。今度は、ドアが開くまでの時間も焦れた。
 エレベーターに乗り込み、三階のボタンを押す。ドアが開くと、いつもの見慣れたクリニックのガラスのドアが見えた。中は温かい光で満ちている。クリニックは開いているのだ。
 美穪子はおそるおそる中を覗き込むように様子を伺った。受付の椅子に座っている女性がいる。美穪子の知らない人だった。パソコンのディスプレイに目を落としていた女性がふと顏を上げ、目が合った。全身から汗が吹き出た。
 女性はにこやかな微笑みをつくると、立ち上がった。ゆっくりとドアに向かってくる。自動ドアが開いた。
「どうしましたか?」
 抑揚を抑えた柔らかい声。きっとそういうふうに訓練しているのだろう。この人は、一体誰なのだろう?
 美穪子は視線を逸らした。瀧本と一緒に暮らすためにこの世界に戻ってきたはずなのに、自分の居場所のはずのクリニックには、自分の知らない女性がいて、どういうことなのか、思考が追いつかなかった。
 吐き気がこみあげてきて、美穪子はその場にうずくまった。女性は黙って、そっと背中を抱きかかえてくれた。
 温かい、と美穪子は思った。人の温もりが、こんなにも温かいだなんて。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。落ち着いてね。とりあえず中に入ってください」
 クライアントだと勘違いしたのか、女性は美穪子にゆっくり話しかけると、肩を抱いて立たせてくれた。自分はここで働いているのだと言い出すことができない。

(つづく)


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