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【短編小説】「振り向きざまに走る」

* 本作品はkindle版も出しております。本記事の有料記事部分とは連動しておりませんので、購読の際はどちらかお好きな方でご購入ください。

「振り向きざまに走る」

 

 
 
 来月、十八歳になるイチタカがうちのチャイムを鳴らしたのは、映画を見ながらソファでうたた寝をしていた、ある師走の日曜日の午後のことだった。ピンポーン、と聞き慣れた電子音が聞こえたとき、目を開けたが、部屋を暗くしてあるせいで、とっさにいまが何時だかわからなかった。映画はちょうどラストシーン、エンディングのスタッフロールが流れはじめるところだった。
 おれは首を横に向けて、玄関のカメラ映像のディスプレイを見る。魚眼レンズの歪んだ映像は、顔の半分近くをマフラーに埋めた、ショートカットの女の子を映し出していた。
 おれは立ち上がり、ディスプレイ下の通話ボタンを押して、「開いてるよ」とだけ短く言った。レンズ越しに、女の子が小さく頷くのが見え、すぐに画面から消えた。
 あいつがこの家に来るのはいつぶりかな、とふたりがけのソファに座り直しながら考えた。一年ぶりということはないだろうが、半年は経っているかもしれない。いつのまにか大人になってしまったんだな、と思った。
 ほどなくして、玄関のドアが開く音がして、イチタカが家の中に入ってくる。リビングに繋がるドアを少し覗くように開けて、「こんにちは、おじさん」と声をかけ、遠慮がちに入ってきた。
 さっき、玄関に備え付けられたカメラで確認した通り、ごわごわの青と白のストライプのマフラーが顔の半分を覆っている。薄茶色のダッフルコートの下は高校の制服で、スカートの下に紺のジャージを履いていた。綺麗に短く切りそろえられた髪はまるで少年のようで、冬だというのに長年の日焼けのあとが肌にうっすらと沈んでいる。
 リビングの入り口に佇むイチタカは、おれがイメージしている背たけよりも、ひとまわりもふたまわりも、大きかった。もともととても痩せていたが、いまは手足が少し長くなって、上にぴょこんと身長が突き抜けているような感じだ。
「映画見てたの」
 イチタカは部屋の中央まで来ると、八〇インチのテレビ画面を食い入るように見ながら、ぼそっと言った。画面からはもの悲しいギターの音色が響いている。
「ああ」
「なに?」
「『レオン』」
「知らない」
「ナタリー・ポートマンがブレイクするきっかけになった映画だよ」
「それ、誰?」
 イチタカはそう言うと、やっとグルグルに巻きつけてあったマフラーを解いて、持っていた大きなスポーツバッグを床に置き、ダッフルコートも近くのカウチに脱ぎ捨てた。寒かったのか、とがった鼻先が、ほんの少し赤くなっている。
「学校はもう終わったのか? 家じゃなくて、直接こっちに来るなんて、珍しいな」
「今日は日曜だよ。ちょっと部活で、行く用事あったから」
 イチタカはおれのことをおじさんと呼んでくれるが、血縁関係があるわけじゃない。ただの隣人だ。十年前、おれの妻が亡くなるまで、イチタカの家とは家族ぐるみの付き合いがあった。今だって、夏のバーベキュー、クリスマスはおれも呼ばれて、顔を出している。この、男の子のような名前をした女の子は、それでも名前負けしないように、すくすくと、少年のように育った。
 イチタカはテレビの画面を見たまま動かない。何か言いたいことがあるのかな、とおれは思った。そういえば、今は十二月だ。昔、音楽プレイヤーが欲しいと、直接ねだられたことがある。しかし、イチタカと、その妹のフウカのためのクリスマスプレゼントはもう既に買ってあって、寝室のクローゼットの奥に仕舞ってあった。
「今日は日差しがぽかぽかしてるから、サンルームに行こう。いっちゃん、ココア飲むか?」
「ココア?」
「そう。寒いだろ」
「いい」
「うち、あとはコーヒーと紅茶ぐらいしかないぞ」
「……じゃあ、ココアでいい」
 そう言って、勝手に廊下をぱたぱたと歩いて行ってしまった。おれは重い腰をあげて、キッチンに行って湯沸かし器に水を入れ、電源を入れる。映画はもう終わっていた。おれはダイニングテーブルの上に置いてあるリモコンを取ってテレビの電源を切り、テレビに接続してあったノートパソコンのスイッチも切った。ふたり分のココアを入れながら、賞味期限は大丈夫だろうか、と気になった。
 ぎこちない手つきでマグカップを運んで廊下を歩くと、つきあたりに十畳ぐらいの広さのサンルームがある。もともとあったものではなく増築したものだが、妻が生きていた頃には色とりどりの、名前も知らない可憐な花たちで埋めつくされていた。いまは、観葉植物がメインの、おれの書斎のひとつになっている。
 イチタカはカウチの端っこのほうに座って、窓の外を眺めている。そんなところを眺めても、せいぜい隣の家の塀ぐらいしか見れないというのに。
「ほれ、熱いぞ」
 ガラスのテーブルにマグカップをじかに置き、向かいのカウチに座る。普段、人と会うときに使う応接室でもあるのだが、その中にイチタカがいるというのは少し違和感があるし、大きくなったとはいえ、見慣れたその空間にいると彼女の小ささがより際立つようだった。
「ありがとう」
 真顔で言われ、おれは黙って頷いた。そのまま、マグカップに口をつけ、黒い液体をすする。ふだん全く淹れないからか、うまい云々よりも、その蕩けるような甘さがまず、気になった。
 少し気まずい静寂があった。
 イチタカが、すうっと息を吸い込む。そして、言った。
「おじさん、お願いがあるの」
「なんだ」
「お金を、貸して欲しくて」
 なんとなく予想していたことではあったので、隙を入れずに、言葉を重ねる。
「いくら?」
 イチタカは一瞬黙って、言った。
「三十万円」
 これには、少し驚いた。とっさに、次の質問をしようと頭が回転をはじめたが、押しとどめた。はたから見れば、おれの表情は全く動いているように見えないはずだ。 
 とっさに、学費かな、と思った。だが、すぐに頭の中で打ち消す。イチタカは進学せずに地元の会社に就職することを早々に決めていたはずだ。それとも、気が変わったというのだろうか。
 なんにせよ、こういうときは、よけいな口をはさまずに相手に最後まで語らせるのが礼儀だ。そう思って、おれはイチタカの言葉のつづきを待った。だが、いつまで経ってもそのさきがないので、おれはテーブルの上のマグカップをもう一度手に取り、取手の部分を指ですこしなぞった。もちろん、そんな行動にはなんの意味もない。
「駄目?」
 イチタカが静寂が打ち破って出し抜けにそう言ったので、おれは少し吹き出してしまった。だが、目の前の、まっすぐにこちらを見つめる瞳は、寸分も動かない。いつになく真剣な表情で、こちらを見据えている。おれは緩んだ表情を打ち消し、マグカップをテーブルの上に置くと、ゆっくり立ち上がり、サンルームの正面の引き扉を開けた。気温は低いが、風がないので、さほど寒くはない。それに、イチタカの座っている位置は、入り口に置いた石油ストーブに近いから、そこまでは冷えないはずだ。
「タバコ吸ってもいいか?」
 そう訊くと、イチタカは静かに頷いた。おれは自分が座っていたソファの後ろにあるデスクの引き出しからタバコを取り出し、火をつけた。
 タバコの煙を吸い込み、窓の外の風景を眺めて、目を細める。都心のベッドタウンの一角にあり、建て売りで買ったこの家の庭はもともと狭かったが、どうせなら有効活用しようと、リフォームのときに増築して、このサンルームを作ったおかげで、庭はほぼ消滅し、ちょっとした家庭菜園をつくるぐらいの余裕しかない。幸運なことに、隣が公園なので日当たりは悪くはないが、庭の先にある低いブロック塀が視界の半分を遮っている。
 おれは煙を吸い込みながら、まだらな雲のあいまいな冬空を見上げ、三十万か、と思った。もちろん大金だが、二階にあるおれの書斎の金庫には、たぶん現金で二百万は入っているはずだ。そういえば、会社をつくった時にはじめてした借金も、たしか三十万だった。まだ大学を中退したての二十歳で、親戚の叔父に頼み込んで金を借りたのだ。だが、そんな金はひと月もしないうちに溶かしてしまい、また叔父に土下座して追加の五十万円を借りる羽目になったのだった。
「駄目かどうかじゃなくって、どういう目的なのか言わないと、貸せないよ、いっちゃん」
 おれは外を見つめたまま、当たり前のように言った。そしてそれはほんとうに、当たり前のことだった。
 振り返ると、イチタカはさっきと同じ表情をして、こちらを見ている。目が合うと、口を真一文字に結んで、少しだけ目を伏せた。
「駄目なの?」
 そんな表情をしたイチタカを見やってから、おれはまた外の風景に視線を戻した。
 簡単には言えないようなことなのか。まさか、いじめってことはないよな。いじめで三十万円を巻き上げるなんて話は、さすがに聞いたことがない。
 おれは覚悟を決めて、タバコを机の上の灰皿に押し付け、イチタカの前のカウチに座った。膝のあたりで手を組むと、イチタカは俯いていた顔を少しだけあげて、上目遣いでこちらを見た。
「いいか、いっちゃん。お金を貸すには、まず理由が必要なんだ。理由を言わないで貸すことはできないよ。それは相手がいっちゃんだからじゃない、誰だってそうだ。大金を何も言わずに貸すなんてことはない」
「じゃあ、理由を言ったら貸してくれるの」
「それは理由を聞いたあとで決める。返せるかどうかは、そのさらにあとの話だ」
「そんなのおかしい。お金を返せるかどうか、それがまず重要なわけじゃん」
「いや、理由のほうが大切だ」
「でも」
「『借りる理由』が必要なのは、ちゃんと意味があるんだ。お金を借りる気持ちにどれだけ真剣な気持ちが詰まってるか。その理由が、本当に真剣なものだったら、返済なんてどうにでもなるんだよ。そこはたいして重要じゃない」
 イチタカはまだ何か言いたそうに口を開いたが、少し頬をふくらませて、下を向いた。
「笑わない?」
「笑わないよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「ウユニに、行きたいの」
「は?」
 おれが思わずそう反応すると、イチタカはしかめっ面をして、横を向いてしまう。おれはイチタカが言った言葉を、そのまま舌の上で転がしてみる。ウユニ? いま、ウユニと言ったのか?
 それが何を意味するのかは、とっさにはわからなかった。だが、数秒考えて、もしかしたらウユニ塩湖のことか、と思い至った。
 いつからかはよくわからないが、ネット等で有名になった、南米の観光地だ。チリだかペルーだか忘れたが、とにかくそのあたりの山の、浅い塩分濃度の濃い湖で、風がなく凪いだ日には、一面が鏡張りのようになる。よく、ウユニ塩湖で、まるで宙に浮いたような写真がインターネットにアップロードされている。最近は、ウユニ塩湖で撮影したミュージックビデオなども話題になり、人気を博している。実際のところ、ただの塩分濃度が濃いだけの浅い湖でしかないのだが、少なくとも日本では、いまや有名な観光地のひとつだ。
 おれはそれを聞くと、急に脱力してしまった。びっくりしたとか、呆れたとか、そういう感情ではなく、想定していた悪いほうの予感が外れて、肩の力が抜けた感じだ。思わず、ふっと吐息を漏らしてしまった。
「いま、笑った」
 目の前のイチタカがこちらを睨む。冗談っぽいいつもの睨みかたではなくて、本気で怒っているようだ。おれは顔の前で手を振る。
「いや、笑ってないよ」
「笑ったじゃん」
「ほんとに、笑ってない」
「…………」
 おれは反射的に立ち上がって、そうだ、お菓子持ってくるから、と言ってキッチンのほうに戻った。戸棚を漁ったが、普段は菓子なんて食べないから、数ヶ月前に酒のあてに買った柿の種と、手土産にもらったバウムウーヘンしかない。それを手早く皿に乗せてから、またサンルームのほうに戻った。
 イチタカはスマートフォンを出して、それをいじっていた。せわしなく指を動かしているから、ゲームでもしているのだろうか。おれが戻ってきて、テーブルの上に皿を置いても、そちらを見ようともしない。小さく音をつけているせいで、静かな昼下がりのサンルームに、ピコンピコンというかすかな電子音が響く。
 はじめて人に金を貸したのはいくつのときだったろうか。もちろん、学生のときに、ちょっとしたジュース代、カラオケ代を建て替えるぐらいのことはあった。だが、ある程度まとまった金をはじめて人に貸したのは、起業してそれなりに会社が軌道にのってきた頃に、知り合いが独立するというので貸した百万円が最初だ。たしか、二十代後半だったと思う。
 よく知っているやつだったし、周りからの信頼も厚く、事業プランも当時のおれが見る限りではちゃんとしたものだった。しかし、その数年後にあっけなく会社は潰れ、そいつは自己破産したのちに行方知れずとなった。それからもう二十年近く連絡をとっていない。これからもとることはないだろう。
 おれは三十代のときに会社を十億で業界最大手の企業に売却すると、その売却益を共同出資者と分け、エンジェル投資家として独立した。エンジェル投資家、略してエンジェルなどというが、ビジネスに関しては極めてドライにやっているので、名前だけが浮いている感じだ。具体的には、大学などの医療分野で先進性のある研究を見極め、出資して法人化し、新興市場に上場させて株式の売却益を得る。その繰り返しだ。もちろん数多くの失敗をしたが、幸運も味方してなんとか最初の資産を何倍かに増やすことができた。
 最初に人に金を貸したときはあっけなく失敗したが、それ以降、おれが主にやってきたのは投資だ。融資ではない。いかに社長が優秀だろうが、あくまでも出資なので、結果として会社が潰れればおれの持っている株式は紙くずになる。だが、本当に事業がスタートするところから、二人三脚で出資をしていくので、出資する金額と比較するとリターンは大きい。
 出資を決めるポイントはいくつかあるが、「人を見る」のがもっとも大事なのは、どんな投資でも同じだ。どんなに優秀であっても、情熱が感じられない経営者は信頼できないし、逆に情熱だけが空回りしていてもダメだ。いろんな指標を当てにはするものの、最終的な決め手は、「個人的に気にいるかどうか」にかかっている。逆説的だが、「株式が紙くずになってもいい」と思える相手にしか、おれは出資をしないのだ。
「いっちゃん」
 おれは目の前にいるイチタカに呼びかける。イチタカは目をスマートフォンから離さない。もちろん指も止めない。
 こうしてみると、本当にまだまだ子どもだな、とおれは思った。決して疎ましいわけではない。むしろ、微笑ましい気持ちのほうが強かった。
 正直なところ、三十万円というのは大した金額ではない。そりゃあドブに捨てるわけにはいかないが、イチタカのためなら、喜んであげられる金額だ。おそらく、イチタカに卒業祝いとしてあげた場合、その妹のフウカにも同じぐらいの金額をあげなければならないが、それにしたって合計して六十万円だ。卒業祝いとして、自分として許容できる金額ではあった。
 いや、おれは何を考えてるんだ、とかぶりを振る。そういう問題ではない。高校生にとっては、三十万円は、それこそ天文学的な金額のはずだ。それを、出せ、ではなく、貸してくれ、ということで、ここに来ている。貸してくれという金を、そのままあげるのは、いくら相手がイチタカとはいえ、失礼というものだろう。だいいち、ふたりの母親の圭子が、そんなことを許すはずがない。
「学校出たら、就職するんだろう? 社会人になって、お金を貯めてから、行けばいいじゃないか」
 イチタカはスマートフォンの電源ボタンを器用に人指し指をひねって押すと、テーブルの上に置いた。そして、おれから視線を外したまま、言う。
「お金はあっても、時間がないから。……こないだ、先輩にも聞いたけど、たぶん就職したら、そんな数週間とかの休みは、なかなか取れないと思う」
「パスポートは? 海外なんて行ったことあったか?」
「ない。これから取る」
「その金は?」
「三十万の中に入ってる」
「ひとりで行くのか?」
「もちろん」
 おれは小さくため息をついた。まあ、きっとここに来るまでのあいだ、さまざまな逡巡があり、いろんなことを考えてここまで来たのだろう。
「お母さんにこのことは話したか?」
 おれは静かに聞いた。イチタカは、黙って、こくんと頷いた。
「お母さんに話したのか?」
 おれは驚いて言った。イチタカはまた、黙ったまま頷いた。
 嘘だ、ととっさに思った。イチタカの母親、圭子がそんなこと、認めるはずがない。ましてや、おれから借金をして、まだ未成年のイチタカひとりで海外、それも南米に旅行させるなんてことを。
「お母さん、いま家にいるのか? 少し話がしたい」
「いまは家にいないよ」
「仕事か?」
「仕事っちゃ、仕事だけど。箱根に行ってる、社員旅行で」
「社員旅行?」
「ちょっと山奥にある旅館だから、携帯の電波も入らないって言ってた」
 こともなげにイチタカは言った。そしてまた視線をそらし、ソファ脇においてある観葉植物を指でなぞっている。
 母親を説得する前に、まずおれから金を借りて、味方につけようということか。金を借りる算段が整えば、母親を説得しやすくなるだろうし、両方いっぺんに相手をするよりはひとりずつ説得したほうが成功率は高い。一応、イチタカなりに考えてるんだな、とおれは少し感心した。
 だが、もちろん、そんなのは子どもの浅知恵で、ほとんどなんの意味もない。いずれにしても、いくら親しい間柄とはいえ、常識的に考えて、女子高生の旅費を、おれが保護者に無断で貸し出すなんてことはない。
 おれは自分のスマートフォンを取り出すと、圭子の電話番号を呼び出し、電話をかけてみた。だが、呼び出し音は鳴らず、聞き慣れた機械音が、かけた番号の先が電波の届かない場所にいるということを告げただけだった。
「いっちゃん」
「なに」
「なんで、ウユニに行ってみたいんだ?」
「なんでって……」
「友達とディズニーランドでも行けばいいじゃないか」
「もう何度も行ってる。それに、そういうことじゃない」
「そういうことじゃないって?」
「わからないなら、いい」
 イチタカは会話を打ち切ると、今度は短い自分の前髪をいじりはじめた。ショートボブというのだろうか、女の子にしてはかなり短い髪型だ。イチタカは、床の一点を見つめながら、短い自分の髪を人差し指と親指でゆっくりとねじっている。
 おれは自分の机の横にある本棚から、ある本を手に取った。それは風景の写真集で、何年か前に、書店で購入したものだ。一時期、仕事が立て込んでいたときに、活字を読むのが億劫になった時期があって、昔からの習慣で書店に足は向くのだが、本を買う気にはなれず、仕方なく写真集や画集を一冊ずつ買っていた時期があった。その頃に購入したものだ。
 書店の入り口付近にはたいてい売れ筋の本、特に自己啓発書のような本や、仕事術みたいなことを書いた本が平積みされていて、その奥には文庫本をはじめとした小説を売っているコーナー。参考書や実用書の棚がその後ろにあって、写真集や画集は、そのさらに奥まったところにある。いまどき、インターネットでどんな写真はイラストも見ることができる。わざわざ写真集や画集という形で購入する人間は、それぐらい奇特な存在なのだろう。
 おれはパラパラと記憶を頼りにページを繰っていく。水面をテーマにしたその写真集に、確か載っていたはずだ。
「ほら」
 目当てのページを引き当て、イチタカの前のテーブルの上に、写真集を広げて置いた。それまでつまらなそうにしていたイチタカが、身を乗り出すようにしてそれを見た。
 その写真は、確かに綺麗だった。夕暮れ時の時間帯なのだが、空の赤い部分と、まだ青い部分が混在している。入道雲のように立ち上る雲が立体的にオレンジ色に染まり、そのすべてが水面に反射している。あまりにも反射している度合いが強いので、そこに水があるようには見えない。とても幻想的な風景だった。たとえば、夢の中の世界で見る風景が、こんな風景だろう。
「すごい、おじさん、こんなの持ってたんだ。ウユニ好きなんじゃん」
 イチタカは嬉しそうに言う。笑うと、小さくえくぼが浮かんで、まる母親のようだ、とおれは思った。そういえば、こんな笑顔で笑うところを見るのは、小学生ぶりかもしれない。
「たまたま持ってる写真集に載ってるのを思い出しただけだよ」
 おれはぶっきらぼうに言う。事実、それはそのとおりだった。
「すごく綺麗」
 イチタカはじっとその写真を見ている。さっきの笑顔とはちがって、真剣な表情だった。
 たしかに綺麗だ。実際に見たら、これはどれほど綺麗なのだろう。しかし、その風景は、安っぽい絵葉書の写真みたいに、どこかありきたりで、チープなものでもあった。
 なんというのか、現実感がない。その写真は、まるで鏡の世界の迷い込んだみたいな世界観だったが、実際にそのような場所があるとはどうしても信じられなかった。
「いっちゃん」
「なに?」
「ここに、行ってみたいんだろ?」
「行ってみたい」
「でもなあ、こんなところ、実際にはないんだよ」
「は?」
「実際にはないんだ、こんな場所は」
「でも、写真には写ってるじゃん」
 イチタカは何を言っているのかわからない、というように、唇をとがらせる。
「写真はな、いっちゃん。いくらでも加工できるんだ。こんな綺麗な風景は実際にはなくて、ぜんぶ、この写真家に作られたものなんだよ」
「……意味わかんない」
「それに、いつでもこんなに綺麗な風景がみられるとは限らない。風がない、凪いだ日じゃないとこんなに綺麗な鏡張りの状態はみられないっていうしな。もちろん雨が降っていてもダメだ。これだけの理想的なコンディション、整うまで待つには何日もかかるらしい。カメラマンはプロだから、そういう理想的なコンディションが整うまで根気強く待って、やっと撮影ができるんだ」
 イチタカは、おれが言い終わるのを待って、パタンと写真集を閉じた。
「行ったこと、あるの?」
「え?」
「だから、行ったことあるの? おじさん」
「行ったことはないよ」
「だったら、それって、おじさんの、妄想ってことじゃん」
「妄想じゃ……」
「じゃ、仮に本当だとしてもさ。それって、行かない理由には、ならなくない?」
「だから、行っても無駄足になるかもって……」
「いいの」きっぱりとした口調でイチタカは言った。「行ってみたいんだから」
 まっすぐなその顔が、眩しくなかったといえば嘘になる。しかし、それだけまっすぐな気持ちが、できれば、もっと違うほうへと向いていてほしかった。
「返済はどうするんだ? 実家から会社に通うにしても、最初は返せて月に一、二万ってとこだろ。いきなり三十万も借金して、大丈夫なのか?」
 そこで、イチタカは口の端を持ち上げるようにして、笑った。
「おじさん、それ、おかしい」
「何が?」
「だって、返済できるのか訊くのは、貸すことを決めたあとだって、言ったじゃん」
「それは……」
「それに、理由が真剣だったら、返済はなんとでもなるんでしょ」
「…………」
「あたし、真剣だよ」
 やっぱりまっすぐな目でこちらを見る。
 おれは自分が簡単なミスを犯したことに気づいたが、イチタカと正面から向き合うために、ソファに座り直した。
 未成年が、ひとりで海外に行けるのかどうか、ツアーに入るのか、それはわからない。だが、問題はそこではない。ウユニ塩湖は、日本ではすでに観光地として有名になり、いろんな人がそこに行っている。写真集はもちろん、SNSにも、そういった写真で溢れている。いわば、手垢のついた観光地で、かつ、ひどくバーチャルな存在に思える。現実感がないというか、スマホ越しの世界に思えるのだ。まだ就職もしていないイチタカが、おれから借金をして、そんな作られた観光地もどきの場所に行って、本当に有意義な体験がもてるのか、おれは確信しかねるのだった。
 仕事柄、世界中のいろんな都市に行く機会がある。たいてい、仕事の前後にオフの日を入れていて、その気になれば、あちこちに観光に行くことができる。実際、海外出張に行きはじめた頃は、時間を見つけては観光地に出かけた。だが、そこで見られる風景は、日本の絵葉書やインターネットの画像で見られるものとほとんど同じだったので、実際に観光地に行っても、そこに自分が知っているものと同じものがある、それをただ確認しにいくだけの作業にすぎず、やがて虚しくなって、ホテルの部屋に閉じこもっていることが多くなった。実際のところ、投資家として起業家の話を聞くほうがよっぽど刺激的で、ただの「絵葉書の世界」でしかない観光地に行くことに、意義を見出せなかったのだ。
「いっちゃん……」
 おれはその先の言葉を紡げなかった。金を貸すのは簡単だ。なんだったら、そのままあげてもいい。しかし、それはどう考えたって、正しいことではなかった。
「もういいや」
 イチタカは言って、顔の前で手をひらひら振った。
「え?」
「もういいや。どうしたって、おじさん、お金貸してくれないみたいだし。よくよく考えてみれば、ただ家が隣だっていうだけなのに、お金を借りにくるなんて、さすがにちょっと図々しいよね。もう帰るよ」
 イチタカはそう言うと、ソファにつけていた身体を起こし、勢いをつけて立ち上がった。おれはそんなイチタカを見上げる。イチタカは立ち止まらずにサンルームの入り口まで歩いて行った。
「いっちゃん」
「なに」
 イチタカはピタリと足を止める。
「寒いから、風邪引くなよ」
 そう言ってやると、「……おじさんこそ」とイチタカは良い、廊下を走って行ってしまった。
 しばらくすると、また廊下を駆け戻ってくる足音がして、イチタカが顔だけドアの影から突き出すと、舌を突き出してあっかんべーをして、また廊下を駆け戻っていった。

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