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「きみはオフィーリアになれない」 川嶋美禰子 後編 #112

 三人で朝食を取ったが、会話らしい会話はない。もっとも、これはいつものことだ。私たちは、もはや家族だ。たとえ一言も言葉を発しなくても、会話は成立する。瀧本は新聞を四つ折りにして読みながら食べている。江利子はテレビに目をやって、時折、テーブルの上に置いた携帯を手に取る。いつもと全く同じ光景だった。
 江利子はさっさと食事を済ませ、慌ただしく立ち上がった。家を出るのは江利子が一番早い。次に美穪子が階下の病院に行って掃除や書類整理などを行い、最後に瀧本が病院にやってくる。
 ほどなくして、江利子は慌ただしく家を出て行った。瀧本はソファに移動し、コーヒーを飲みながら新聞の続きを読んでいる。テレビもついていたが、おそろしいほどの沈黙があった。
「あ、そういえば」と瀧本が口を開いたので、美穪子は飛び上がらんばかりに驚いたが、もちろんそんなことを表面に出すわけにはいかなかった。もっとも、瀧本は新聞に目を落としたままだった。「昨日の夜は、大丈夫だった?」
 美穪子は激しく混乱した。大丈夫だった? 一体なんのことを指しているのだろうか? 問題は、瀧本があちら側の記憶を持っているのか、ということだった。もし、あちら側の世界の記憶が残っているのだとしたら、そんな暢気なことを言うはずがない。どちらだろうか、と美穪子は身構えた。
 美穪子が黙っているので、瀧本は不思議そうな顏をして美穪子に視線を向けた。美穪子が反射的に手首を隠すと、素早く視線がそれを追いかけた。
「その手首」
「…………」
「見せなさい」
 瀧本が静かに近づいてきて、美穪子の左手首を見た。
「どうしたんだ、この傷。まさか、昨日の?」
 そう言って、自分の手首を見つめる。だが、瀧本の手首には、わずかに丸い傷跡がついているだけで、傷跡と呼べるものはなかった。皮膚の色も、肌色のままだった。
「なんでこんなに白くなってる? 昨日まで何もなかったのに……少し待ってて」
 瀧本は慌ただしく立ち上がると、自室へと消えていった。おそらく、医療用具を取りに行ったのだろう。だが、美穪子は確信した。
 瀧本は、こちらの世界に記憶を持ってきていない。おそらく、昨日の晩、魚に噛まれたあと、少ししてから目覚めたのだろう。そして、美穪子と自分は、「魚」に噛まれたショックで気を失っていた、と判断した。その後、なんらかの処置はしたかもしれないが、結局は眠りについた。
 瀧本が記憶をこちらの世界に持ってきていないということは、瀧本は「魚」を発見しなかったのだ。あちらの世界では。
 「魚」を見つけることができなかったのだろうか? いいや、と美穪子は小さくかぶりを振る。おそらく、安達凛子は「あちらの世界」に行き、そして、戻って来ている。瀧本だけが戻って来れないとは考えにくい。
 瀧本は、あちら側の世界を望んだのだ。
 では、こちら側にいる瀧本とは、一体誰なのだろう?
 美穪子の中で永遠に生き続けると言った瀧本は、こちらの瀧本なのだろうか?

(つづく)


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