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「きみはオフィーリアになれない」 安達凛子 後編 #030

 これを手放せば、永遠に先輩と離ればなれになってしまう。
 『魚』をどこかに移動させなければならない。だが、どこへ? 凛子は思いつくかぎりの知り合いを思い浮かべてみた。大学の同級生……職場の同僚……。実家は論外だった。おそらく、父親は凛子がこんな『魚』を実家に持ち込めば、ただちにどういう出所のものなのかを探ろうとするし、盗品の可能性があるとわかれば、ただちに警察に届け出るだろう。
 半日近く考えたのち、瀧本しかいない、凛子はそう確信した。たった一回しか会っていないが、信頼が置けるような感じがしたのだ。『魚』をどのような手段で移動させればいいのかわからなかったが、ネットで一般的な熱帯魚の運搬方法を調べ、準備をした。厚手のビニール袋に水槽の水を入れ、発砲スチロールなどの箱に収めれば運搬は可能らしい。ただし、魚にストレスがかかるので、長時間の移動はできない。凛子は前回と同じように、瀧本クリニックに電話で予約を取り、通常の診察が終わる午後六時に訪問する旨を伝えた。
 ネットで見た通りに準備をして、魚の入った箱をキャストつきのキャリーケースに詰め、凛子はマンションを出た。移動にはタクシーを使った。瀧本クリニックに着くと、以前と同じように、川嶋嬢が受け付けてくれ、奥の診察室に通された。まるで、ここだけ時間が止まっているかのように、何もかもが、以前と同じだった。
 瀧本に勧められて椅子に座ったものの、何をどう切り出せばいいのかわからなかった。押し黙っていると、江利子から多少は事情を聞きましたよ、と瀧本は切り出した。「といっても、江利子も何が起きているのか、よくわかっていないようでしたが。おそらく、その件で相談に来られたのですね? もしよろしければ、お聞かせ願えますか」
 いざ瀧本を前にすると、言葉が何も出てこない。だが、瀧本は医師で、コミュニケーションのスペシャリストだ、回りくどい言い方をする必要はない、と思った。
「先生、『魚』を預かって頂けないでしょうか」
「前回、安達さんがおっしゃっていた、『魚』のことでしょうか?」
「ええ、実は、それをいまここに持って来ています。このバッグの中に、それがあるんです」
 瞬間、ぴくりと瀧本の眉が動くのがわかった。瀧本がわずかながらでも表情を崩すのはそれがはじめてだった。
「ちょっと見せてもらえますか」
 凛子は頷き、足元に置いてあるキャリーケースのジッパを開けた。ケースにギリギリ入るぐらいの大きさの発砲スチロールの容器があり、その蓋を取ると、厚手のビニール袋の中で静かに泳いでいる白い魚が見えた。瀧本はそれを覗き込みながら、綺麗な魚ですね、と呟いた。
「お預かりすることはかまいません。ですが……」と言葉を切った。「それがどのぐらいの期間なのか、つまりですね、安達さんが、この魚をふたたび受け入れる体勢が整うのはいつなのか、それを教えて頂くことはできませんか。細かい事情は問いません。安達さんが相当お困りなのは、表情を見ればわかりますから」

(つづく)


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