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211209【大学祭を作るといっても】

大学生にもなれば、彼女くらい軽くできる。そう幻想に浸っていたのは大学受験時代からかもしれない。テニスサークルに入れば女子の比率も高いしゴールデンウィークには彼女ができるという謎の情報が、華の東京から田舎の高校にも入っていたのは事実。首都圏に行けば行くほどカワイイの偏差値は上がる、とも聞いた。ネットの掲示板の情報までも鵜呑みにして、期待と、不安の入り混じった中、ひょんなご縁で大学祭実行委員会に身を置いた。

サークルというか、一応部活動なので“部活動”という表現になるべく統一する。新入部員の一年生が入り、部は全体で100人近くの大所帯だった。そんな若い男女が集うコミュニティであれば、いろんな人間がいて、互いに興味を持って、恋愛に発展していく。恋愛というか、身体の関係に発展もしていくそうだ。「大学祭を制作、ゼロからコーディネートしています。」と胸を張って言える一方、恋愛も大学生らしくしてまっせ、という部員も多くいた。もちろん、これは自分が入った大学以外の大学祭実行委員会もそうだと思う。

入部後、希望の部に入った際に行なわれた新歓コンパで、隣に座った一個上大学2年生の女性の先輩は、自分の2個上、大学3年生の部長と付き合っていたそうだ。自分が入部する4月のちょっと前に別れたらしく、未練があるのかないのか分からないが、元カノの行動にはやはり気になってしまうのだ。自分が元カノなる先輩と、酒席というシチュエーションで楽しく話している様子に、何か視線を感じたのは、やっぱり部長だった。

「矢口は焼酎のロックだよな。」

喧嘩ではないが、何か突き付けられたような言い方で渡されたグラスをぐいっと飲み干す。先輩も負けじと飲む。先輩に進められたお酒を拒むことを自分はしなかった。変にプライドがあるわけではないが、自分、飲めるんだ、お酒が。

当時、これは良い表現ではないし、自分の界隈だけの話かもしれないが、お酒、また飲酒の強要は寛容だった時代で、母校には無かったが、周りの大学を見れば「お酒の一気飲みコール選手権」なるものも開催されていた。その大会のDVDがビレッジバンガードの店頭で流れていて、買ってしまったし、大会の観覧はできなかったが、新宿ロフトプラスワンで行われたイベントには参加するくらい、一気コールが好きだった。今でも覚えているリズム、歌詞があるし、最近でも夜明けの渋谷の路肩でヤッてる若い男女を観ている。一気コールは、宴界のトランスミュージックである。

そう、その一気飲みコール。ここの部活にも存在していた。

誰がどこから輸入して、サンプリングしているのか分からないが、「ああ、これ、どこかで聞いたことある。」という替え歌のようでオリジナルなのか、なんなのか分からない、それでも一体感が出るワンコーラスで、お酒をどんどん空にしていった。

この、一気コールがどこからともなく伝わっていく構図は、高校野球でも置き換えられる、と勝手に解釈する。まだ、動画、配信サイトがほぼなかった当時。同県の強豪高校が県大会を勝ち進み、地方大会、全国大会に進んだ際、対戦した高校の応援歌を持ち帰り、地元県内であたかも自分たちが作ったように演奏し、それが、県内の高校に普及する、というルート。甲子園大会をテレビで観ていて、「ああ、これ良い曲だな、ウチでもやりたいな。」というのもあるが、現場=球場で聞いた、強豪高校(ほぼ私立高校)の応援パフォーマンスを自校でも取り入れてきたのだと思う。諸説あるが。ただし、自分の高校3年生時、バッターボックスに入った際の応援歌は、大黒摩季の「あなただけ見つめてる」であった。それ、甲子園、全国ネットで観たことも聞いたこともない。アバンギャルドな応援歌だ。自分、スラムダンク、観てなかったのに。ましてや、競技、野球だぞ。バスケじゃないぞと思うが、今でも話のネタにしている。自分の応援歌、好きじゃないけど、何故かオリジナルはミリオンヒットって。

さて、大学生の一気コールに話を戻す。大学に入って早々、最高学府のイベントサークルの代表がスゴいだの、そのサークルのコールを真似しただの色んな話があったが、自校の些細な部活にも受け継がれているコールがあって、それは、地元の商店街でも使われているコールだった。

「飲んでゴー、食ってゴー、力の限り、商店街!」

たぶん、オリジナルは色々あるが「森田剛、ひろみ郷、笑っていいとも創刊号!」である。このコールを聞いて、すぐ皆が真似て、そのまま酒の消費が加速して、というのを何度も目の前にしてきた。そして、自分が先輩となった時は、他方面からコールを仕入れ、部内で普及する、という活動をしていたことはまた追って話すことにしよう。ゴールデンウィークが明けた頃、部全体で集まって、新入部員入部歓迎コンパが横浜駅西口の地下の居酒屋を貸し切って開催された。そこでも大いに盛り上がり、警察が来たとか来ないとか、その続きは想像におまかせする。
そんな、大学祭の製作とは関係なく、酒の席ばかりの話になるが、ここで飲めるやつ、飲めないやつ、骨があるやつ、骨がないやつみたいな、新入部員を一種の篩いに掛ける、1つのステップだったのだろう。いつの間にか、自分は「芸能人担当」というポジションを与えられ、大学祭当日に向けて、芸能人のブッキング、当日はマネージャーのように付き添いサポートする、そんな役割になった。ステージでの企画や大学の広すぎるグラウンドを使った企画をゼロから考えることなく、企画に沿って好適な芸能人をブックする、そんなポジションだった。5月のゴールデンウィーク明けくらいから、連日行なわれるアクビしか生産しない企画会議に付き合い、無駄に時間を費やし、「とりあえず、飲みに行くか。」の繰り返しの日々だったのを覚えている。本当に、勇んで大学祭実行委員会に入った!そんな人間なんて奇跡的に少ないだろうという中で、ほんわかこのノリが好きという、大して勉強もできないモラトリアムが光求めて集まった虫のような存在が、華の大学祭でゼロから企画を創るなんて、笑けてくる話かもしれない。まあ、大学祭は大学祭、ということで皆が悩んでいた中、「何かアイデア無いのか!」と言われ自分が出したのは、「エアバトル」という名の、何でも「エア」で表現して嘘を楽しむ異種格闘技なるバトルだった。当時、エアギター世界選手権で芸人ダイノジのおおちさんが優勝していたのを見ていた。これきっかけではないのだが、自分は芸人ダイノジが好きで、上京前からテレビ出演の時は欠かさず観ていたし、上京した際にDJイベントに足を運んでいた。ただ、当時恐る恐る足を運んだ新宿のハコでのイベントでは怖くて、音楽に身を委ねて踊るなんてことはできず、烏龍茶をチビチビ飲みながら何もできず、帰っていた、というのを思い出す。

そのダイノジを大学祭の芸能人担当として、どう呼べばいいのか検索した結果、当時吉本興業のHPからDLしたFAX用紙に「大学祭に来てもらいたい芸人さん」として「ダイノジ」と書き込み、予算を添えて、送信した。まだステージで何をするかも決まっていないのに。ただ、ステージ企画の一つとして、「エアバトル」という言葉が生き残っていた。それを考えるのは自分ではなく、企画部のアンタラでしょと文句を言いながら、企画の骨組みを考えていたのは自分である、別に何も自慢でもないし誇れるものではないけど、ああ、自分が良いと思った芸能人呼べるじゃん、と自分の担当の権力を使いましょうかとほくそ笑んで、大学1年生の夏は、もうそこまで来ていた。

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