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200806【中3の夏、思い出作りへ】

高校野球、夏の甲子園の代替大会が各県で連日行われている。自分の出身県では、おおかたの予想通り、過去に夏の甲子園の準優勝を経験した高校が優勝したかと思ったが、同じく何度も甲子園にコマを進めている強豪校が決勝で破り、優勝したようだ。決勝は私立高校同士の試合だった。私立高校の強豪化が進む高校野球、致し方ないのかもしれない。

そんな強豪校に進学していたら、人生は変わっていたのかもしれないが、それは妄想に過ぎず、地に足を付けて、なんとか生きている今があれば十分じゃないかと、リアルなところに落ち着く自分も居たりする。

いやぁ、高校野球の強豪私立高校に行っていればなぁ。

確実に行けるチャンスと実力があったのは、今だから話せる。自慢話じゃないんだけど。

中学時代、3年生の先輩方が抜けるとともに控え投手としてベンチ入りし、1つ学年が上の代にもそれなりに球が通用するようになり、この頃は本当に野球が楽しかったと思う。

少年野球と異なり、変化球が解禁されたことで、テレビでプロ野球の投手が投げている変化球を投げてみたい。という好奇心から、色々トライした。専ら中学時代のピッチングにおいては、ストレートとドロンと落ちるカーブが主体だったが、カットボールやチェンジアップもちょこっと投げていた。ここでの変化球の出会いや打者を翻弄する投球術が、何かこの先の生き方にも通じるものがあると思う。基本、真っ向勝負はキライであり、逃げに逃げる人生である。何かのドラマのタイトルではないが、戦う場所を選ぶことは大事だと思う。そんな事、中学時代、モー娘。の辻ちゃんのプロマイドばかり集めていた自分には考えてもいなかったが、今となっては、そういう戦い方を、野球を通じて体得していたのかもしれない。あくまで個人の見解ですが。

中学2年生の夏。一つ上の先輩が引退した後、自分たちの代が最上級生となり、新チームが始まった。同時にエース背番号を背負うことになった。この頃、ピッチングにおいてエースになった同時に、4番を打たせてもらっていた。まあ、4番といっても後ろから4番目なので、6番である。ただ、結構バッティングも良かったと思う。柵越はないけど、長打を結構打っていた。

そんな気持ちよく野球をやっていた中学2年生の終わり、昼休みにグラウンドで野球をして遊んでいたら、ボールが自分の左目に当たり、午後の授業は休み、そのまま隣町の病院に行った。眼球に傷がついたらしく、しばらくして傷は治ったが、この頃から、左目だけ、やたら視力が落ちた。先の事を書くが、自分はこのとき追った怪我によるものか分からないが、不同視のまま、高校2年生まで野球を続けた。

中学3年生。自分の人生のピークのひとつと先に書かせてほしいくらい、充実した野球シーズンだった。

エースピッチャーとしてピッチングは冴え、球速はどうだろう、ホラ話の要素が強いかもしれないが、130キロは出ていたようだ。当時、中学校の野球部にスピードガンはなかったから野球部員の目視によるものだが。

投げていても気持ちよかった。7者連続三振を取ったり、ある時、変化球カーブを投げた際は、相手右バッターが腰を抜かして、倒れてしまったが、大きく変化してベースの上を通り、ストライク判定だった。その時は得意げにマウンド上でニヤリとしていたと思う。

最後の夏の大会は、自信を持って挑むことができた。県大会の準決勝までコマを進めた。準決勝までの道のりは、厳しい試合が続いたことも少し書いておく。雨による試合中断、日程と球場を替えての再開、その試合が延長タイブレーク2イニングまでもつれたり、別の試合では最終回、2点差を逆転したりと、今でも頭に残っている試合が幾つかある。

自分の中でこの先野球はほぼしないだろうから、生涯一の打球は、県大会一回戦で、先程書いた最終回の攻撃で逆転打を打ったエンタイトルツーベースだった。できれば、ノーバウンドで柵越してほしかった。まあ、柵越は、前に書いたツーアウト満塁でエンドランのサインを出す先生だけで良いだろう。

さて、準決勝、自分は先発投手だったが、犠牲フライと味方のエラーで2失点をし、そのまま見せ場もなく負けてしまった。

ここで、中学時代の野球は終了、長い長い夏休みと、高校受験が控えている。と思った球場からの帰りのバスの車内、監督に呼ばれた。

「Kボールの全国大会に県選抜として、参加しないか。」

自分は、ハテナマークだけ出てきた。

【AA全国中学生K-Ball野球選手権大会】。

この大会に使用される「K-Ball」の説明をホームページの文面より一部抜粋する。中学3年生が軟式から高校硬式にスムーズに移行できるよう「KENKO WORLD」(通称Kボール)の普及に努めている。ボールのサイズは、重量は硬球と同様、構造は軟球と同じゴム製の中空、身体に当たったときの衝撃が硬球の1/3~1/4と身体に優しく硬式野球に近いプレイができるため、アジア野球連盟のU-12とU-15のカテゴリにおいて大会使用球として指定されている。とのことだ。その全国大会の切符を勝手ながらいただいた。

自分が、同県代表の18名に選ばれた。

その瞬間は、人見知り要素が強く、いやいや、こんなところじゃ通用しないよ。と前向きではなかったが、一回自宅に帰り、恥ずかしながら親と考えた結果、その選抜チームに参加した。だから、選ばれた時に「よっしゃー。」と何かを掴んだような雄叫びはなく、チームへの共有はそこそこ、「県選抜、行ってきます。」というテンションだった。

代表チームが形成するにあたり、自分の県、その当時は、特にレセプションはなく、県内の有望な選手をかき集めての即興チームだった。そのチームが何回か集まって練習し、全国大会に挑むようだ。既に負けていた中学校からの選抜メンバーは何回か合同練習をしていて、そこに準決勝まで残っていた自分が合流した。

最後に選ばれたため、背番号は「18」だった。

県内の有望な選手が集まった合同練習は、刺激的なものだった。正直、自分、球のスピード以外、何もかも劣っていて、場違いな印象があった。スイングスピードは速いし、皆足も速かった。当時自分は175センチ70キロくらいだったんだけど、190センチ近い長身でガッチリした“THE 4番”のようなスラッガーも居れば、小柄ながらも、守備に秀でた選手もいた。パワプロ9のサクセス、あかつき大附属高校編のようだった。

練習についていくのが精一杯だったが、シートバッティングの投手として登板した時は、唯一の得意分野として精一杯アピールした。そこで、意外と通用したことが自信になった。監督に名前を覚えてもらったのかよく分からないが、出身中学の名前とともに、「期待しているよ。」と何度も声をかけられた。名前覚えろやと思ったが、まあ、いいか、期待されているだけプラスかと。

その週末の土日、2日間の練習を終えて、大会出発の日を迎えることとなった。県選抜のユニフォームが自宅に届き、背番号は18。

良いじゃん、背番号18。

中学校からの指示で、大会参加前に、ユニフォームを来て、校長室に野球部の監督と訪問した。「県選抜に恥じぬよう、全力でプレイをしてきます。」と宣言したものの、夏の思い出作りに行きますか、という感じだった。

今、この年になっても、なんせ人生は思い出つくりだと思っている。思い出を作るなら、少しでも面白い方に、というのが理想。あと、ダメでもともと精神もお大事に。

周りより少し球が速いだけで、県選抜に選ばれているんだから、ラッキーだわ。とほくそ笑みながら、8月のお盆の期間、中伊豆で行われるAA全国中学生K-Ball野球選手権大会に出発した。

次回は、この大会参加の思い出話と、それ以降の下り坂の野球生活を書いていきたい。とりあえず、巨人、投手増田の起用が面白い。

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