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自分のダメさと社会のダメさについて。

映画『ジョーカー』をけっこう前に観た。映画の良い悪いはともかく、これは危険思想をバラまいている映画だなあと、あとになって思った。
ほとんど内容がわからないように書くけど、1mmもネタバレを許さない人や、1mmもジョーカーへの批判を受け入れられない人は下の文章を読まないほうが良いかもしれない。でもまあ、ごく普通の、単純な感想です。

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ジョーカーは芸人として三流・四流クラスのつまらない人物なのだが、それでも自分がいつか有名になって笑いが取れると思っている。その希望とは裏腹に、生活は惨めである。病気の母とふたり暮らし。ろくに食べていないせいか、げっそりと骨までみえるほどに痩せこけ、ピエロの仕事もうまくいかない。
ジョーカーはある日、地下鉄で野蛮な輩に遭遇し、たまたま持っていた拳銃で彼らを退治する。それは犯罪だが、人を救った行為とも受け取ることができる。自分の手で一気に世界を変えられるという充足感。

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ツイッターに対する批判を見たり聞いたり言ったりするとき、それは「自分はOK」な立場から常に語られる。自分に非があるのではなく、ツイッターに潜むダメな輩たちがツイッターを壊してしまったと。

ツイッターに限らず、社会でも世界でも同じことがいえる。「自分はOK」なのだが、ダメな奴らが多くなってきて世の中はダメになってしまった。そのダメさ加減は客観的には語られない。

ジョーカーは地下鉄で見た「ダメな社会の一面」と、「自分が芸人としてウケない現実」を混同する。ダメな芸人はすべてを客のせいにする。いや、笑いがとれないのは、お前のせいなんだよ。社会のせいじゃない。その「自分のせい」を受け入れることなく、「ウケないのは社会がダメだからだ!」と結論づけたとき、笑いの取れない芸人はコロッと悪人にかわり、世界を破壊する側にまわる。

これは笑いに限らない。
「人気を気にする」ことは、そういうふうに転倒する危険性を常にはらんでいる。『ジョーカー』ではその危険性を無視し、混同することを奨励しているように感じた。麻薬よりずっと錯乱している。自分の問題と社会の問題をうまく切り離すことができないと、すぐジョーカーになってしまう。
いやむしろ、ぼくが自分の中に「混同しがちな傾向」を感じるからこそ、あんまり混同を奨励しないでほしいなあと思う。
混同は正義でも悪でも同じだ。そこを切り分けられないと、自分のせいじゃないときに過度に自責の念を感じて、自分を攻撃することにもつながってしまう。「混同した結果、誰か(自分を含む)を攻撃して全てを解決しようとする」という点が問題なのである。

『ジョーカー』が危険だとすればそれは「悪を奨励している」からではなく、「自分の問題」と「社会の問題」を混同することをすんなりと認めているところだと思う。


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