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Michael Breckerの名盤 (10) Pilgrimage/ Michael Brecker:評伝エピソードを交えて

私がジャズサックスに傾倒するきっかけとなったテナーサックス奏者、Michael Breckerの評伝「マイケル・ブレッカー伝 テナーの巨人の音楽と人生」が刊行されました。
というわけで、評伝のエピソードを挟みながら、私の好きな名盤、名演を紹介しようという企画です。今回はその10回目、一旦最終回です。当然ながら、評伝のネタバレもいくらかありますので、ファンの皆さんはまずは評伝を買って一読することをお勧めしますし、そこまでは、という人もこの記事で評伝に興味を持ってもらえると(そして買って読んでいただくと)幸いでございます。


今回の名盤:
Pilgrimage/ Michael Brecker

今回採り上げるのは、マイケルの遺作となった "Pilgrimage"、邦題は「聖地への旅」です。レコーディングは2006年8月、リリースはマイケルが亡くなった2007年1月から4カ月後の2007年5月。評伝によれば、マイケルは闘病のためこのレコーディングの後、ほとんどサックスを吹けておらず、文字通り「遺作」となった作品です。ここではあまり余計なことは書かず、そこに至る過程を簡単に辿ります。

10.1 発症

評伝によれば、2000年ぐらいからマイケルは腰の痛みに悩まれていたらしいのだが、それが何かしら尋常でないものだと気づいたのは、2004年8月のSteps Ahead での来日公演、Mt Fuji Jazz Festival のライブの時だったらしい。その時ライブの映像が全編残っている。

この映像は(全曲ではなかったかもしれないが)当時私もテレビで観た。1990年代の後半からアコースティックジャズの活動が中心であったマイケルが久しぶりにSteps Aheadでエレクトリックな音楽を演奏しているということで、妙にうれしくなった。メンバーもほぼベスト。ついでだが、マイケルはいつものAKAI製ではない、新型のEWIを披露している。左手と右手を体面にポジショニングする妙な形で、カブトガニみたいだなあと思ったのを覚えている。このEWI、実は最近私も購入したNuRAD EWIのプロトタイプだったとのこと。80年代EWI導入当初の定番曲だった "In a Sentimental Mood" も披露している。
改めて、おなじみのレパートリーで縦横無尽にソロを採る様子に「俺たちのマイケルが帰ってきた!」と私含めたファンは狂喜乱舞だった(たまにテーマ間違ったりしてるけどw)。しかし、実際には、ステージ途中から腰に相当な痛みを抱えていたらしい。評伝よりちょっとだけ引用。

「(アンコール前に)ステージを降りるとマイケルが『腰の骨をやっちゃったみたいだ』というんだよ。笑っていたから冗談かと思ったのだが、彼は『いや、本当にやっちゃったと思う』と繰り返した。」

マイケル・ブレッカー伝

結局、アンコールはやらずに、ステージでの挨拶だけでコンサートを終えたようだ。ちなみに最後の曲は "Trains"だが、そこでマイケルは大きなジェスチャーを交えながらテナーで強烈なソロを吹いており、まさか「腰の骨をやっちゃった」と表現するような痛みを抱えているとは思えない。プロフェッショナルとして、いったんステージに上がったら痛みを隠してでも全力を尽くす人だったのだろう。
マイケルは休暇のために東京に残ったメンバーを置いて翌日ニューヨークに戻る。そして、このライブが彼の日本での最後のパフォーマンスになった。

10.2 闘病

マイケルが日本から戻って、MRI診断を行ったところ、椎骨損傷が判明。休養の後、再検査を受けたところ、骨髄異形成症候群(MDS)と診断される。椎骨損傷および体調不良の真因であった。MDS、一部の患者は、急性骨髄性白血病に進行するため、前白血病状態とも呼ばれ、言ってみれば骨髄のがんである。
その後12月までの仕事をキャンセルするが、12月にはゲスト奏者としてニューヨークのブルーノートに出演。また明けて2005年にはクインデクテットの単独コンサートの後、6週間の "Directions in Music" ツアーに出て、5月には "Saxophone Summit" のクラブギグをこなした。
しかし、体調不良により2005年内の予定はすべてキャンセルされ、6月から7週間、がんセンターで集中的な化学療法を受ける。190cmを超える身長のマイケルの体重が65kgまで落ちたというから、相当厳しい状況だったのだろう。
2005年9月には妻のスーザンがマイケルの病気についてプレスリリースを出して、骨髄移植のための大々的なドナー探しが始まる。おそらく、このころ日本のメディアでも「マイケルが深刻な病気である」という情報が出始め、前年のMt Fuji以来活動が見えていなかったこともあり、心配した覚えがある。一方で、日本にいた私にとってあまり現実的な話ではなく、無根拠に、また戻ってくるに違いない、と思っていたのも事実かもしれない。
以上の経緯も含め、評伝ではマイケルの壮絶な闘病や、その過程での家族や仲間のミュージシャンとの交流が詳細に描かれるが、辛いのでここでは触れない。ぜひ評伝を買って読んでほしい。

10.3 録音

病状が一進一退(というか一進二退くらいだったのかもしれない)を続ける中で、マイケルは新作のレコーディングに拘って準備を進めた。メンバーを決めて予定を採るが、キャンセルになる、というようなことが数回あったという。
2006年5月には病状が悪化し、妻のスーザンによれば「死にかけた」が、その後多少回復。2006年6月にはJVCジャズフェスティバルの特別企画としてニューヨークのカーネギーホールで行われた、ハービー・ハンコックの音楽を讃える特別企画に文字通りの「サプライズ・ゲスト」として登場して、ハービーのトリオと一曲演奏する。この場面はある意味この本のハイライトとなっているが、観客を前にした演奏はこれが最後になったと思われる。
そして、2006年8月、ついにニューヨーク、マンハッタンのアバタースタジオで三日間のレコーディングが行われた。メンバーは、マイケルがサックスとEWI、パット・メセニーのギター、ハービー・ハンコック、ブラッド・メルドー、ギル・ゴールドスタインがピアノ/キーボード、ジョン・パティトゥイッチのベース、ジャック・デジョネットのドラム。初リーダー作から付き合っているメンバーを含む、ドリームチーム。
当然、全員マイケルの病状のことはよく知っており、これが遺作になるかもという予感もありながらの演奏だったようだ。ジャック・デジョネットの証言をちょっとだけ引用。

「(マイケルは)自分には限られた時間しかないことが分かっていて、なにかクリエイティブなことがしたかったんだと思う。そして、他のメンバーも全員『これが最後になってしまうかもしれない。でもそうじゃないかもしれない』と思いながら、この難しい状況に立ち向かっていたと思う。」
「(痛みを堪えていると思われるマイケルに)『どう痛むの?』と聞くと『知らない方がいいと思うよ』と言うんだ。(中略)(プロモーション写真撮影のために)スツールから立ち上がるのにカメラマンに手伝ってもらわなくてはならなかった。カメラマンに謝りながら、『足の感覚がないんだ。でも、文句はない。少なくとも肺はちゃんと機能してるからね』と言うんだよ。」
ジャック・デジョネット

マイケル・ブレッカー伝より

この奇跡のような三日間のセッションの後、自宅のスタジオでEWIのオーバーダブなどを行ってマイケルの録音は終了した。その後10月には急性白血病の診断が下され、病院と自宅を行き来して闘病の日々を送る。
一方、アルバム完成に向けてのプロダクション作業は並行して行われており、ミックスやマスタリングの後、マイケルが最終ミックスにゴーサインを出したのは亡くなる4日前だったという
マイケルは、2007年1月13日に57歳の若さで息を引き取る。上に書いた通り、このアルバムはその4か月後の5月にリリースされた。
ちなみに、本アルバムは別の名前が付けられる予定だったが、マイケルの死後、本アルバムのプロデューサーであるパット・メセニーが、関係者にメールを送り、収録予定の9曲のうちの一曲 "Pilgrimage" をタイトルにすることが決定した。

10.4 Pilgrimage/ Michael Breckerを聴いて

ようやく本題。
なのだが、評伝を読んで、壮絶ともいえるレコーディングの様子を知ってしまうと、なかなか冷静な評価ができない。ジャズ以外の音楽も含め、レコーディングに居合わせた全員が「リーダーの遺作になる」ことを意識していた、などという事態は前代未聞なのではないだろうか。
しかし、ここで聴ける音楽が、その手の悲壮感や感傷を感じさせるものではない、ということは言えると思う。それどころか、何かしら「前に進もう」という意志さえ感じさせる音楽だ。その感覚は、このアルバムがマイケルの遺作としてリリースされてしばらくしてから書いたこの文章に現れていると思うので、以下リンクにサルベージしておく。

ここで触れているタイトル曲 "Pilgrimage" 以外も、マイケル、メンバー含め時に激しく、時に優しい、きわめて上質なコンテンポラリージャズを演奏しているのは言うまでもない。ぜひご自身で確かめてほしい。

あとがき

日本語版の評伝出版を機に、私のアイドルであり続けるマイケル・ブレッカーの名盤を紹介してきた。改めて、私にとっての影響力の大きさと、彼の音楽の素晴らしさを感じる機会になったと思う。
マイケル・ブレッカー、不世出のジャズミュージシャンである、というだけでなく、80年代のジャズシーンにあって、自分の体験を用いて多くの仲間を麻薬渦から救っていた。また、本稿では触れなかったが、骨髄異形成症候群(MDS)への罹患後は自らの病気を公表することで、この病気を世の中に知らしめ、多くの寄付を集めて、自らの死後、残された家族がそれを用いて世界中のドナー活動を支援しているという。音楽界への絶大な貢献も含め、改めて「聖なる人」だったのだと認識を新たにさせられた。これを読んでいる皆さんも(まだお読みでない方は)ぜひ、評伝を購入の上、この「聖人」の人生を感じて、同時に改めて彼の素晴らしい音楽を楽しんでいただきたい。

最後に、2007年1月13日(日本では1月14日)、マイケルの訃報に接した私が当時ブログに書いた短い文章を引用して終わります。今もこの気持ちは変わらないなあと思うわけです。

この人がいなかったら私がジャズに興味を持つことはなかっただろう。高校生の時に石神井公園近くの図書館で借りた深町純 "On the Move" を聞いたときの不思議なショック(テナーを吹いているとはとても思えなかった)、その後、Brecker Brothers Band の "Heavy Metal Bebop" を聞いたときの衝撃はブラバンテナー吹きをジャズの道に引き入れるのに充分すぎるモノだった。

その後、コルトレーンだロリンズだと時代を遡ってジャズの面白さを理解していったが、ブレッカーは「ジャズの歴史」ではなく、我々にとっての「リアルタイムアイドル」であり、常に新しいことを期待させてくれて、アルバムが出るたびにワクワクさせてくれる存在だった。

第一線を走り続けたマイケルを「リアルタイム」で30年近く見続けられたのは、ほぼ同世代に生きる我々ならではの特権だった。だからこそ、今日のこの知らせには語る言葉を持たない。

ご冥福をお祈りします。

2007/1/14 八木敬之

八木敬之 ブログより

ご愛読ありがとうございました。
(といいながらおまけ書くかもしれません)。

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