見出し画像

そばかすはエース

「コンプレックス」という言葉を知ったのは、いつの頃だっただろう。
何かの歌詞で聞いた気もするし、小説の中で出会った気もする。
はっきりとは覚えていないけれど、生まれた瞬間は「コンプレックス」だなんて思ってもいなかったものが、いつかのタイミングから、ふと「コンプレックス」に感じてしまうことは誰にだってあるのだと思う。

私の場合は、そばかすだった。
それ以外にもないわけではないけれど、最大にして最難関のコンプレックスは、確実にそばかすだった。
母親ゆずりの生まれつきのものだったので、物心ついたときから、鏡を見ると、茶色だったり薄茶色だったりするそのつぶつぶは、いつも私の頬の上にいて、成長するごとに少しずつ濃くなっていくそのつぶつぶに、何も思わないでいることはできなかった。

その頃毎週見ていたミュージックステーションで、昔の人気曲ランキングのようなものが流れていて、その時聞いたジュディマリの曲に、「大嫌いだったそばかすをちょっと」とあったから、「ああ、そばかすはそういうもので間違いないんだな」とどこか納得できたことは覚えている。
悩んでいる私を見て、周りの大人たちは
「いいじゃない、健康的で。」
「将来シミにならないようにすれば大丈夫だよ。」
と言っていた。
母親だけは、自分自身のコンプレックスが継がれてしまったからだと思うけれど、
「ごめんね、うつっちゃって。」
と申し訳なさそうにしていた。

今でこそ、メイクでわざとそばかすを描く人がいるくらいなものだけれど、一昔前までは、「かわいい」の対象ではなかったように思う。
いつの間にか、個性の一つみたいに「かわいい」と言われるようになっても、自分自身は長いこと「コンプレックス」の認識で生きてきてしまったから、ポジティブに活かしましょうと時代が変わったところで、「ああ、これはかわいい個性なんだ」といきなり改めるのはどうにも難しいほどに、傷ついてしまった。
誰かに明確に傷つけられたわけではないけれど、世の中はいつだって、真っ白な肌の人がきれいだということを示していたから。
ほんの小さいことだけれど、取り返しのつかないネガティブ遺産だけは積み上げられている。コンプレックスってそういうものだと思う。

1日の終わり、狭い洗面台でメイクを落として、パシパシの目からコンタクトを外すと、急に周りの輪郭がぼやけて、さっぱりした顔のイメージだけが残る。
その時鏡にうつっている私の顔は、きれいな肌色1色で、「最初から、このままだったらいいのに」と何度思ったことか。
裸眼で見るそばかすは、とてもきれいだった。

でも、大人になって、いちいちコンプレックスに同情することが、もはや面倒くさくなってきた部分がある。
嫌なんだけど、悩みは他にも山ほどあって、もっと大事な悩みが他にあるという感じ。
だから、嫌いなりに上手く付き合う方法を探そうと思って見つけたのが、「そばかすはエース」思考。

プロ野球の監督が、不調続きで全然ヒットが出ないエースバッターを、それでも信じて4番に置き続けるように、私のそばかすもきっと、長いことくすぶりながら、本当はずっと期待のエースで、いつかきらきら輝いて本物のエースになれるタイミングを見計らってるんだ、と思うことにする。
そうすれば、相変わらずコンプレックスにしか思えなくても、「いつかくるのね、あなたの出番が」と微かな望みを持てるような気がする。
監督だって、「ああ、もうこいつだめかもな」とうっすら思いながらも、エースがエースでいることを諦めきれなくて、ずっとずっと待っているんだろう。

今じゃない。今じゃないけど、いつかくる。

欲を言えば、モテ期みたいに、人生で3回くらいあるといいなあ。
私のそばかすの晴れ舞台。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?