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映画『先生の白い嘘』にインティマシー・コーディネーターを入れなかった件について

インティマシー・コーディネーターが話題になっている。発端は、映画『先生の白い嘘』で監督を務めた三木康一郎にインタビューしたネット記事だ。記事中の三木監督の発言を引用すると《(主演の)奈緒さん側からは『インティマシー・コーディネーターを入れて欲しい』と言われました。すごく考えた末に、入れない方法論を考えました。間に人を入れたくなかったんです。(後略)》とある。

※ 大元となったネット記事 ↓


鳥飼茜の原作漫画はすでに内容が広く知られているのもあり、あの話にインティマシー・コーディネーター(以下、IC)を入れないのはおかしいだろとか、パブ記事でそんなことを得意げに言える監督の意識はどうなってるんだとか、まあSNS上では非難轟々の状態だ。聞き手である平辻哲也がFacebookに投稿した文章から、この記事は宣伝のふりをした告発ではないかと推測している人もいた。

それらの騒動を受けて7月5日の公開初日舞台挨拶では、冒頭で製作委員会からのコメントが発表されるとともに、三木監督も謝罪している。登壇者は全員が黒い服に身を包み、奈緒は《私は大丈夫です。それだけは伝えようと思っていました》と述べ、風間俊介は《本来、初日舞台挨拶でいうことではないかもしれないですが》と前置きした上で、自分の思いを大切にして観ない選択をしてもいいという趣旨のことを言っている。とても舞台挨拶とは思えない異様さだ。

※ 公開初日舞台挨拶での発言を全文掲載したレポート ↓


そして同じく7月5日、映画の公式サイトに製作委員会の名義で「『先生の白い嘘』撮影時におけるインティマシー・コーディネーターについて」という題の声明文が掲載される。はっきりと《これまでの私共の認識が誤っていた》と認めているのは異例であり、最近のお詫びコメントに多い「誤解させてしまったのなら」みたいな責任回避の表現がないのだけでも好ましい。

※ 公式サイトに掲載された声明文↓


よくよく思い返せば、非難の対象となっているのはネット記事における三木監督のたった1ヶ所の発言それだけであるし、SNSがざわついている程度の「コップの嵐」でしかなかった。ことが大きくなるまでは変に刺激せずにやりすごすことだってできたわけだ。過去の類例を思い返しても、当事者がリアクションするのはTVのワイドショーで取り上げられたり広告主が反応したりしてからのことが多いし。しかし今回は、公開初日の舞台挨拶を完全に「非難への対応」の場にするほどに、当事者はこの事態を真摯に「自分ごと」として受け止めているのは伝わる。

今回の騒動には、大きく2つの論点がある。ひとつは、ICを入れなかったことによる「実際に撮影現場で性加害に類することがあったのではないか」という疑念と、ICを入れなかったという判断をインタビューで答えた三木監督の感覚に対する問題だ。そのうち前半については、奈緒自身が《どうしても現場に対してちょっと不十分だと思う部分が正直ありました》と述べているように、完璧ではなかったとは思われる。一方で、声明文を読む限りでは、性加害シーンの撮影時には男性スタッフは退出し、出演者が本音を言うために女性のプロデューサーやスタッフが付いているなど、できる限りの配慮はされていたと推察される。日本国内に専業のICが2人しかいない(少なくとも2021年時点では、そのはず)状況下では、現実的にはそう簡単に雇えるものでもないのかもしれないし。

個人的には、公式の声明文をもって、映画『先生の白い嘘』がICを入れなかった件に対する非難は収束すべきだと思っている。新たな情報が出てきたら別だが、「完璧ではないが最低限の配慮をしていると思われるし、出演者も撮影で心に傷を負ったとは言っていない」という現状、それ以上の非難は、ただただ不毛になるだけだからだ。「この映画に直接的な性暴力の描写は必要か」という論点にすり替えることもできるが、それはもう作品論であり、明確な答えは出ようがない。「製作者が必要だと判断した」という事実があるだけである。それよりも、今回の経緯や撮影方法を詳細に分析したうえで、これからの映画撮影におけるICの起用法について真剣に考えたほうが、よっぽど建設的だ。

では、もうひとつの論点である、ICを入れなかったとインタビューで語ってしまった三木監督の感覚について。それを考えるため、改めてエンカウントのインタビュー記事を見返してみる。この記事では、聞き手の質問部分は掲載されていない。そのため、ICを入れなかったと答えたのは、どのような質問への答えなのか不明だ。しかしこの発言の最後は《性描写をえぐいものにしたくなかったし、もう少し深い部分が大事だと思っていました》とあるように、おそらくは演出方法について聞かれているのだと思う。非難されている《間に人を入れたくなかったんです》も、表現者としてのこだわりという文脈で捉えるのが妥当だ。

これ、三木監督のサービス精神ゆえの発言ではないだろうか。映画監督が自分の作品について表現にこだわっている風の発言をすれば、聞き手は喜ぶし、記事を書きやすくなる。この程度の誇張なんて、誰しも無意識にやってしまうものだ。もちろん、役者と密な関係性を作ればいいものができる系の精神論は時代遅れだし、そんな古い感覚を良かれと思ってペラペラと喋っていては、意識を改革しろと言われても仕方ないのだが。舞台挨拶の冒頭で三木監督は《私の不用意な発言により》と、まずインタビュー記事の発言についての謝罪から始めたが、それは間違っていないのである。

たしかに、三木監督の発言は時代の流れに取り残されており、擁護できない。しかし、謝罪と反省をして、今後は考えを改めますと宣言している以上、もう石を投げてはいけない。せっかく、50代のベテラン映画監督が、現代の価値観にアップデートされようとしているのだ。こんな絶好の機会を逃してはならないのである。今は成長を温かく見守り、その真価は次の作品で判断すればいい。

さて、一応は邦画ファンのはしくれとして、映画『先生の白い嘘』を公開初日に観に行った。この時点では舞台挨拶での各人の発言も声明文の中身も知らなかったので、「ICを入れなかった」という情報だけで性加害に類するような撮影現場だったと刷り込まれていた。そのため、性加害の描写がスクリーンに映るたびに、劇中の物語としての暴力性よりも、どうしても想像してしまう撮影現場の暴力性が勝り、ノイズになってしまった。仮に「ICが入っているますから」と言われれば、こういったノイズを除去する口実にできる。そういう意味で、ICとは観客が安心するための存在とも言える。

ちなみに、金曜日の夜7時台の新宿ピカデリーは、若い女性客で埋まっていた。その多くは出演している猪狩蒼弥のファンであろう。一連の騒動を知っているのか怪しいし、そもそも直接的な性加害の描写がふんだんにある映画だと把握しているのだろうかかと不安になった。そしたら、後ろの席に座っていた女性は、ラストシーンの猪狩蒼弥の髪型がツボにハマってしまい笑いが止まらなくなっていた。上映後にロビーに出てもまだ笑っていた。思っているよりも世界は平和なのかもしれない。

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