「孔子伝」 白川静

 孔子の人物像が掴めたところで、史実に移ろう。
 孔子伝は、読み進めるほどに疑問が増える本だった。碩学の頭の中の一端を覗かせ、私が知っていると思っていた事実に対しても容赦無く攻撃を加え、まちがいだったのだと認めさせられる。論語を読んだあとにもう一度じっくり読みたい本だ。

 本文に移る前に、基礎知識をまとめておく。
神話時代 黄帝、堯、舜といった聖王が収める。
紀元前2000年 中国最初の王朝、夏が成立。
紀元前1600年頃 殷が夏を滅ぼして天下をとる。殷からのち、漢までの時代に作られた青銅器に鋳込まれた文字を総称して金文という。
紀元前1028年 周の武王、殷を滅ぼす。武王の弟、周公旦もそれを助ける。武王は周公旦の息子を魯に封ずる。
 周は西方に起こった、殷とは別系統の文明。国を滅ぼされた殷人は宋に移り住む。
紀元前770年 周、力を失い、天下を保てなくなる。ここからの周は一地方勢力にすぎない。
紀元前551年 孔子誕生。紀元前479年に死ぬ。
紀元前372年 孟子誕生。紀元前289年に死ぬ。
紀元前360年頃〜300年頃 斉で学問が盛んになる。斉の学者たちは住んだ場所から、稷下の学士と呼ばれる。
紀元前221年 始皇帝、天下を統一する。

 孔子の母親はおそらく巫女である。父親は魯の英雄で、60を過ぎたあとに跡取りがいないことを懸念してこの巫女を新しい妻とする。妻は孔子を産むが、実際には結婚前に通っていた男との間の子供であるかもしれない。
 巫祝(神事を司どったシャーマンたち)の身分は低い。殷の時代に人身御供の習慣があったが、それは巫祝の家から出された。生贄となったのは巫祝の中でもさらに最下層の家柄である。孔子はかつて人身御供を出していた一族だという。

 周代には人身御供の習慣はすたれたが、家柄カーストは簡単には覆らない。世に出るまでの孔子は貧窮と苦悩の中にあった。
 孔子は巫祝の行う儀式の起源をたずね、古典を学んだ。形骸化していた儀式に、意味を蘇らせた。孔子は人に教える立場となり、教団を形成していった。
 子路が弟子に加わったことで、教団の性格は大きく変わる。子路は武芸に長じ、すぐれた政治的手腕を持つ侠客だった。子路は魯の有力者に仕えた。子路は魯を牛耳っていた三家の城を取り壊す政策を推進させる。実行させたのは子路だが、影で糸を引いていたのは孔子だった。

 魯の真の支配者は陽虎という男だった。陽虎もまた、古典に詳しく、多くの弟子を持っていた。それに加え、孔子にはなかった政治的手腕も持っていた。
 子路は陽虎との権力争いに敗れる。孔子もまた、魯にいられなくなる。亡命生活中、孔子はその思索を深めていく。
 儒教において重要とされるのは仁義だ。しかし仁と義を並べたのは孟子であり、孔子が思索の要に置いたのは仁と礼だった。
 では、仁とはなにか。
 礼、すなわち正しい動作を身につけ、これに従うことで完全にエゴを消し去った先にある、利他的な行動。おしつけがましくない、厚かましさの一切ない善行。おろらくは空海が他縁大乗心といったそれ。
 では、礼の正しさはなにをもって証明するのか。答えは古典の中にあった。孔子は周公旦を理想の人格とし、礼は彼によって定められたものだというのだ。

 放浪を終えた孔子は魯に帰ってくるが、このときすでに孔子は歴史上での役割を終えていた。老境の孔子の心中は巻懐であったという。
 巻懐という言葉は知らなかったのだが、調べてみると、才能を隠して外に現れないこと、らしい。

 孔子ののち、墨子が現れる。孔子は巫祝の出だが、墨子は職人たちの集団。サブカルに慣れた現代ならば職人ギルドとでも行った方がいいかも知れない。
 職人ギルドもまた、殷の時代からある集団だ。ギルドマスターはギルド内で絶対の権力を持ち、構成員たちは平等に扱われる。攻城兵器、城砦を作るのが得意で、戦争が起こるや駆けつけて傭兵として戦う。一国の君主にとってさえ、職人ギルドは危険な存在だった。
 巫祝ギルドが教理を持ったのを見て、職人ギルドにもまたその需要が高まる。墨子は彼らに教理を与えた。職人にとっての神である禹を夏王朝の創始者に祭り上げることで、儒教以上の権威を得た。
 墨子に対して黙っていられなかったのは孟子だ。孟子は儒教の源流を堯舜に求め、さらに古い時代の王とした。またまた老荘学派は堯舜の前に黄帝を置いた。
 この権威付け競争は黄帝を最古の王とすることで、一応は落ち着きを見せた。

 孟子ののち、論語が成立する。かくして、今日の私たちが見る中国古典の世界ができあがった。

 論語は比較的新しい書だ。しかし白川先生は論語の中にのみ、孔子はその姿を表すと書いている。

 孟子は義を解いたが、忠も重んじた。忠もまた、孔子にはなかった要素だという。
 孔子は自身の理想を体現することを目的とした革命家だ。彼にとって君主は革命を実行するために必要な手段でしかなかった。大事なのはイデオロギー(かくあるべき世界)であり、君主などだれでもよかったのだ。
 しかし革命家・孔子は敗れた。老いるにつれて革命家としての情熱は消え、巻懐の心境に至り、思想家孔子は永遠を得た。

 白川先生は孔子に対して攻撃も行っている。たとえば三年の喪。これは孔子の創作であり、それ以前にはなかったものらしい。当然、周公旦とのつながりもない。先生は三年の喪という誤解を生じたもとになった金文を紹介し、孔子の過ちを指摘している。

 私には白川静という学者が孔子や孟子といった賢者たちと同じ土俵で論じているように見える。少なくとも、私のような低い位置からでは、この人たちは同じくらいの高みにいるように思える。私もそれくらいの学識を身につけたいものだ。

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