「孔丘」 宮城谷昌光

 孔子である。中国の思想を語る上で避けることのできない人物である。今、私の目的はあくまで歴史の理解にあり、哲学は歴史の一要素でしかない。しかし、孔子に関してだけは解説書一冊で済ませるわけにもいかない。

 孔子について調べるため、まずは人物像を確かめたくなった。ついでに弟子たちも。「で、結局孔子ってどんな人なの?」という問いに答えることが今回の目的と言える。
「孔丘」は以前、本屋に平積みされているのを見て、いつか読もうと心に留めておいたものである。それを読もうと思った。当然、小説はフィクションである。しかし最初の一手としては悪くない。作者の見た孔子像を見て、あとから史実を学んで修正していけばいい。

 さっそくアマゾンで買おうとして気づいた。この作者苦手な人だ。昔、この人の三国志で挫折したことがある。とはいえ、そのときは4巻くらいまで進んだのだから、文庫で二冊だけなら耐えられるだろうと思って購入。

 読んでみて、やはり気に入らなかった。文章が嫌いだ。きどっている。小説なら仕方ないという弁護もあろうが、過度に気取っている。
 だれを、たれ、というのはまだいい。セリフでもないのに「」を使っているのは好き嫌い以前に読みにくい。文中で尚書に対して「わざと難しい言葉で書いて史官の特権を誇示したいのではないか」とあるが、この本自体がまさにそれだ。何より、作中の人物が全員作者の言葉をしゃべっている。みんな同じしゃべり方だ。「人間失格」のヒラメに似ている。あの、意地の悪い、もったいぶった嫌味な言い回し。子供に向かって大人の世界の難解さを見せつける小人。

 あまり愚痴っていてもしょうがない。話を進めよう。
 孔子は問いつづける人だ。だれよりも多くの疑問を持ち、それに対する答えの探究をやめなかった人。そのあり方はソクラテスに似ている。だがソクラテスの「己自身を知れ」という問いに答えはなく、指針さえもなかった。それはただ理性をどれだけ真実に近づけられるかという試みだった。
 しかし、孔子には寄る辺があった。周公旦であり、古の礼楽、古典文献だ。

 昔、読んだ本に、孔子の偉大さは新しいものを創ったことではなく、古くからあった伝統や考え方を明文化したことだ、とあった。それには納得できた。論語にも「述べて作らず」とある。この見方はこの本でも同じだ。

 一番驚いたのは、描かれる孔子が成人君主ではなく、欠点を多く持つ人間ということだ。とくに若いときなどは人に聞いてばかりで煩わしがられている。そこに成人孔子の姿はない。
 これは考えてみれば当然のことで、人はだれしも子供時代がある。しかし、孔子と言われれば一個の完成された成人を思い浮かべてしまう。その固定概念を払拭できただけでも価値があった。

 本人と同じくらい関心があった弟子たちのことも書いてあった。それよりも気になったのは陽虎だ。孔子がヒーローなら陽虎はダークヒーローと呼べるだろう。孔子と極限まで似ているのに、肝心なところで紙一重でずれている。常に現実では孔子に勝ち続け、孔子に屈辱を与えたが、二千年後にまで巨人として名を残したのは孔子。
 孔子は50を過ぎて祖国の魯から亡命するが、それも陽虎から逃げてのことである。14年間の放浪を経て帰ってくるが、その直後にもっとも愛した弟子の顔回が死ぬ。孔子は「天、われを滅ぼせり」と叫ぶ。
 陽虎が死に、顔回を失い、周公旦を夢に見ることもなくなったとき、孔子の人生もまた終わったのではないか。ソクラテスは己の哲学に殉じたが、孔子は畳の上で死ぬことを許された。

 作中には論語の言葉も多く見える。とくに印象深かったのは温故知新に関する部分。
 孔子は伝統を川に例える。船に乗っている時、川が流れていることに気づかない。川の流れは岸に立って、流れの外に身を置いたとき、はじめて正しく捉えられる。時流に乗っていては見えないものもある。現代にあるものを遡っていれば古い伝統に行きつくが、それはカビの生えた骨董品などではない。常に新しい水を生み出す源泉だ。

 孔子は敗北者だ。時代の潮流に乗れず、弾き出され、勝者になることはできなかった。儒教には言葉を聞き入れようとしない君主のもとからは去るべきというような、諦観がある。私はそれが嫌いだ。理解されないことを孤高と勘違いした隠キャみたいな痛々しさがある。

 だが孔子は勝てないから考え続けた。理解されないから言葉を発し続けた。唯一の理解者は顔回だけであったろう。
 学びて時にこれを習う喜び。時代の流れから距離を置き、伝統の残る草庵でひとり古典に向かう日々。それが人間孔丘の、最後の姿ではなかったか。

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