中国の歴史 4

 六朝は高い文化を持つ貴族社会であった。

 華北の隋が天下を統一すると、天下に人材を求めて科挙を開始する。これは民間からも広く才能のある人材を得ようとした試みだ。しかし、六朝文化を飲み込んだ隋には貴族社会までも継承し、家柄ばかり重んじられる門閥政治に堕してしまう。

 二代目皇帝の煬帝ははやくも政治を失敗し、各地に反乱が勃発。
 618年、煬帝は反乱軍に殺される。同年、反乱軍の首領のひとりであった李淵が唐の皇帝を自称する。
 唐は他の軍事勢力を滅ぼし、天下を平定。漢以来の長期政権が誕生する。184年に起きた黄巾の乱で天下が乱れてから実に500年ぶりの太平である。

 初代皇帝李淵の時代は反乱軍の平定に費やされた。実質的な天下は二代目皇帝の李世民の時代から始まる。
 中華を平定した唐だが、朝鮮半島までは支配できず、また、イスラム教国家のアッバース朝には敗れている。このことで西洋に紙が伝わった。
 李世民の妃であった武則天は皇帝の死後、王朝を乗っ取る。中国史上唯一の女帝は一代で滅び、李氏が復活。玄宗皇帝の時代に唐は最盛期を迎える。

 玄宗には阿倍仲麻呂が使え、インドから帰ってきた玄奘三蔵も活躍した。

 唐において重要な役職は節度使だ。節度使は地方の長官であり、軍権も握っていた。唐は国際色豊かで、アラブ人の節度使も誕生している。
 複数の節度使を兼ねる人間も出てくる。玄宗の信任厚かった安禄山がそうだ。安禄山は権勢並ぶものなく、玄宗の妃である楊貴妃からも気に入られていた。ゆえに彼が反乱を起こすとだれにもとめることはできず、皇帝は南へと亡命する。

 安禄山の乱は玄宗の息子が平定するも、唐は衰退がはじまっていた。黄巣の乱は自力では解決できず、アウトサイダーである李克用と朱全忠が軍閥を作り、反乱軍を討伐する。しかしこの二人によって唐は滅ぼされ、再び戦乱の世がはじまった。

 五代と呼ばれる時代である。朱全忠の立てた後梁、李克用の後唐、後唐を滅ぼした石敬瑭の後晋、節度使であった劉知遠が独立した後漢、そして後周という五つの王朝が入れ替わり立ち替わりする。

 唐が滅びたころ、北方では契丹族が強勢となる。契丹は国号を遼とした。
 石敬瑭は遼の力を借りて後唐を滅ぼしている。そのとき、見返りに燕雲十六州を割譲した。燕雲十六州は北京周辺の地域である。

 後周の皇帝・世宗は天下統一にリーチをかける。しかし志半ばで死んでしま う。
 世宗のあとをついだ皇帝は後周の軍隊は動揺する。不安を感じた彼らは近衛軍団長であり、名実ともに軍事面のトップだった趙匡胤を推戴。

 960年、趙匡胤は部下たちに推される形で宋の皇帝になった。歴史上名君と名高い人物である。
 趙匡胤は一応、天下を平定。一応としたのは華北の大部分は遼が支配しており、漢民族にとっての悲願である燕雲十六州奪還も成されなかったからだ。

 南方の地方政権に留まった宋だが、ひとまずにせよ戦乱は落ち着いた。

 趙匡胤は石勒遺訓を刻み、宋の皇帝は即位のときにこれを読むことが義務づけらた。
 石勒遺訓はその名の通り、石に刻まれた言葉だ。
 言葉は二つある。大臣が何を言おうとそれを理由にして殺してはならないこと。もうひとつは、後周皇帝の遺族には王族としてふさわしい待遇をすること。

 石勒遺訓は皇帝のみが見ることを許されていたが、大臣たちは言論の自由が保障されることを認識していた。趙匡胤の作った宋代において、文化は民衆にまで広がる。それまでは詩などの文学は名門家庭のみが持つ教養だった。
 また、経済も発展し、紙幣が発明されている。

 北方では新たな火種が生まれていた。女真族の台頭だ。
 女真族は遼への侵攻を開始。これを見るや宋は勝馬に乗ろうとするも失敗。宋の軍隊は弱く、外交も下手だった。
 女真族は国号を金と定める。これは土地の名前ではなく、女真は砂金の採集によって強い経済力を得ていたからだ。

 中国の歴史を見ていて毎度思うのが反乱の多さだ。今回は節度使の反乱に注目したい。
 節度使は、当初はうまく機能していた。しかし安禄山の反乱を皮切りに、唐の国力が衰えると次々に反乱が勃発する。

 地方長官の反乱は、ローマ帝国の属州では起こらなかった現象だ。
 ローマは地中海周辺を支配し、その領土は北はイギリス、南は北アフリカ、東はアラビア半島の一部にまで及んでいた。たとえばガリア属州は現在の西ヨーロッパ(といってもガリアはいくつかの属州に分かれていたが)全域だ。住んでいるのは当然、ガリア人である。ローマ人とは言語も信仰も違う人々だ。
 属州総督は軍権も持っていたのだから、節度使のように反乱を起こせそうなものだ。しかし、実際には400年続いた帝政時代で一度しか属州総督の反乱は起きていない。

 これにはいくつかの原因があるだろう。まず、属州総督は任期を区切られ、中央から派遣される役人だ。軍閥は作りにくい。
 これは政体の問題だが、民衆の気質にも原因はあったと思う。
 中国の反乱では軍閥のリーダーが王を称する。王は土地の名をとって梁だの宋だの言われるが、これらは春秋戦国時代から使われている地名だ。これはつまり、その地方にはある程度まとまった住民共同体があったのではないか。唐の時代でも宋の土地の人々は唐人であると同時に宋人であるというアイデンティティも持っていたのではないか。これが中国の分裂傾向の原因のひとつではないか。

 今あげた仮説は、説というよりはただの思いつきだ。ちゃんと資料にあたったわけではない。しかしひとつのアイデアとしては面白いものだと思う。

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