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隈研吾展にはネコ以外立ち入れないのか-0926①

隈研吾展ー新しい公共性をつくるためのネコの5原則ー@東近美

最終日に滑り込めた。9時30分頃に到着して14時30分からの整理券をゲット。

東近美は常設展が素晴らしく、整理券の時間前に再訪して上から一通り鑑賞する。所蔵作品は13000点以上(!)あるとのことで、毎回初めて見る作品に出会えるのが嬉しい。横山大観の「生々流転」(一部)と萬鉄五郎「裸婦(ほお杖の人)」、荻原守衛「女」、小川待子の工芸作品、加藤翼の映像作品など見所満載で、例によって企画展に訪れたうちのわずかな人しかいないのが淋しい。
みんな、横山大観展で生々流転出ます!ってなったら行列作るでしょ!?藤田嗣治並ばずにじっくり見られるよ!でも、企画展は激込みなのに常設展に来ると時間の流れ方が緩やかになるような、そんな雰囲気が好きなので常設もごみごみしてしまうのは困るな、などと勝手なことを思ったりする。

さて、隈研吾展。展覧会として考えたときに気になったのは以下2点

・実施場所は東近美が適当だったのか
・無料エリアを設定した意味

今回は隈研吾の作品のみで構成された展覧会で、情報量がとても多い。隈さんは哲学者だなと思うくらい、作品を生み出すまでの背景となるインプット情報が多彩で、ゆえにアウトプットとしての建造物には一つ一つストーリーと納得感がある。その建造物が立つ土地の歴史や文化が考慮され、実際に行って見てみたいと刺激されるものばかりだ。
でも、やっぱり私の中で「企画展」は「美術館の企画力が見える場」であって欲しいと思ってしまうのだ。これが六本木の国立新美で開催されていたなら、違和感はなかったのだと思うけれど、あれだけ素晴らしい常設展を見たあとだと、この企画、なんで東近美でやったの?と思ってしまう。
例えば「斜め」のセクションに、東近美コレクションの「斜め」に関するものを一緒に並べてもいいし、常設エリアのデイヴィッド・スミス作品が隈研吾の作品と並んでいたら素敵だなと思う。
(ちなみに正・反・合への疑問の視点はこのセクションだけでなく隈研吾作品の底に流れているものだと感じた)
隈さんが関わっている展覧会ならば、自身の作品に近しい所蔵作品を選んでもらうことだってできるだろうし、様々な理論の他にもし隈さんがインプットとした芸術作品があるなら一緒に紹介して欲しかった。

もう一つの疑問は無料エリアの設定。ここが本当に素晴らしくて、隈さんがどんな想いで復興に携わり現地の人がどうとらえているのかを知ることができる貴重な空間だった。多くの建築家は自身の「作品」に雑音が入るのを嫌うが、隈さんは雑音ウェルカム、「人」が使うということを考えていることが伝わってくるインタビューだったと思う(南三陸の方が、当初は設計に疑問を持っていたけれど「すごい建築家が考えてくれたのだから受け入れてみよう」っていうセリフをそのまま残してあるのも皮肉がきいていてよい)。
なのに「無料のとこは見なくていいよね」という声がちらほら聞こえてきて、そうか、有料のところは見るけど無料になると見ないって人(=常設展を見ない人)もいるんだなと気付かされた。
無料エリアだけを見に来る人を想定して設定したのか、そうではなかったら「無料だから見なくていい」という人を生んでいることが残念で、設定の意図を知りたいなと思った。

猫の視点だけでなく、東近美の学芸員さんの視点がたっぷり入った展覧会だとどうなったのかなと考えてしまった展覧会でした。


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