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第23章 夫がいない日々 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

訳者補足:オードリー・タンの父方の祖母、ツァイ・ヤーバオの自伝『追尋 — 鹿港から眷村への歳月』の第23章です。

※ 原文内容の事実確認による検証・訂正などはせず、そのまま記載しています。

 3人目が生まれて11日目、夫は澎湖の部隊での仕事に戻って行きました。

 私たち母子4人は、再び自分たちだけで暮らし始めました。

 その後の20日の産後ケア「坐月子」期間中は、水汲み、買い物など、すべてをご近所の孫さんの妻さん、齊さんの妻さん、陳さんの妻さんたちに頼らせてもらいました。

 ある時、子どもが食事の時間を忘れて外で遊んでいた時には、数人の妻さんたちが探しに行ってくれたこともありました。彼女たちには本当にお世話になりました。

 童さんの妻さんは少し離れたところに住んでいましたが、毎朝娘の蘭蘭を自分の家に連れて行って預かり、夜に送り返してくれました。娘は「阿ママ(蘭蘭は童さんの奥さんをこう呼んでいました)」にしか懐かなかったからです。

 こうして、私は皆のおかげで産後ケア「坐月子」の期間を終えることができました。最も困難を抱えていた時期にこうして熱心に助けてもらったことに、とても感謝しています。もしかすると、これが今いうところの「眷村文化」なのかもしれませんね。

 3人目が生まれてから母乳が出なくなった私は、色々試しましたが失敗し、結局粉ミルクを買うことにしました。当時買っていた「勒特精」というメーカーの粉ミルクは、夫の給与の三分の一ほどの価格で、私たちにとっては非常に重い負担となりました。幸いにも娘が良い子で、ミルクを飲み終わると抱っこしなくてもお利口にベッドで寝てくれたので、家事をしたり、服を作って粉ミルク代の足しにすることができました。

 ご近所の孫さんが娘に会いに家に来ると、娘が「勒特精」の粉ミルクを飲んでいることを知って「うちの子どもたちはアメリカの支援物資の脱脂粉乳を飲んでいるよ。試してみたら? もし子どもが飲んでくれたら、負担も少なくなるよ」と教えてくれました。

 それを聞いた私は、脱脂粉乳を娘に飲ませてみることにしました。
結果は悲惨なもので、娘は飲んですぐ下痢が始まり、それが悪化して胃腸炎になってしまいました。私は節約のために娘を病気にしたことをとても後悔しました。孫さんに聞いてみましたが彼のお子さんたちは何事もなかったようなので、きっと体質の問題なのでしょう。それ以降、私が脱脂粉乳を使うことはなく、元のように「勒特精」の粉ミルクを使い続けました。

 子どもたちが日に日に大きくなるに連れて、家は手狭になってきました。

 お隣の齊さんの家は、次女が5歳の時、厨房で母親を手伝ってお湯を沸かしていた時、うちわでコンロを仰ぐ時に間違って鍋にぶつけて、鍋の熱湯が彼女の背中にかけてしまい、痛さで叫んで皆を驚かせました。齊さんの妻さんが大急ぎで医務室に駆け込み、私たち数人の母親たちも付き添って彼女たちを励ましました。

 またある時は、孫さんのところの5歳の次男がやんちゃで言うことを聞かなかったので、母親が彼を叩こうとしたのですが、次男はすばやく逃げたものの、竹の床の角に引っかかって耳が1センチほど切れてしまい、流血騒ぎになったこともありました。

 孫さんの妻さんは子どもを抱えて医務室に飛んで行き、医者から「安心してください、子どもはまだ小さいので、包帯で巻いて一週間ほどすれば、傷口は自然に癒合します」と言われてやっと安心できたのでした。

 我が家の長男も素足で外で遊んでいて、竹の切れ端を踏んでしまい、足裏に炎症が起こって数日間歩けなくなりました。トイレに行くにも私が支えてやらなければならず、長男は片足でぴょんぴょんと飛んで前進しました。

 妹が泣いている時などは、私は妹を背負い、彼を支えながらトイレまで連れて行きました。トイレは家から2、30メートル離れており、8戸の家を通り抜け、眷村の端まで行き、小さな道路を渡らなければなりません。長男の足が治るまで、10数日このようにして過ごしました。

 このような状況でしたから、離島で暮らす夫たちは自分の妻と子どもの暮らしが心配でしたし、両方にかかる生活費もまた一つの悩みの種でした。

 そういう訳で、夫とその同僚の陳さんは、一緒に第一中隊へ戻る申請を出しました。

 第一中隊は当時の台北県の石門鄉富貴角にあり、新しい眷村が作られたばかりでした。上司の承認が降りると、夫と陳さんは家族用の家を申請し、それぞれの家を割り当てられることになりました。

 さらに、我が家は3人の子どもがいたので、さらに1間半(約1.82mx1.5=2.73メートル)の家を使うことができました。

 陳さんの家は子どもが2人だったので、1間の家でした。

 私たち2家族は一緒に引っ越すことを計画し、夫たちが休みを取って帰ってくる日に引っ越しすることになりました。

 当時はカメラがなかったので、僑愛新村での2年間、1枚の写真も残せなかったのが心残りです。

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