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子の話(一)「逆境を恐れない母親」光華(長男)

訳者補足:作者ツァイ・ヤーバオの長男・唐光華(オードリー・タンの父)による前書きです。

 私の母は、子どもたちの励ましを受けながら、およそ一年間かけて感動的な人生の物語を書き記しました。

 この自伝は、紙の本と電子書籍があります。
母はまず、紙の本を書きました。一週間に一編、まるで鋼板に刻印するかのように、鉛筆で一字一句綴りながら書き上げたものです。
 二番目の弟・光德には、特別感謝しています。当時、ちょうど両親と同居していた光德は、母が思い出を一編書き終える度、仕事から淡水の家に帰ってコンピューターの前に座ると、疲れも厭わず、母が鉛筆で書いた字を一文字一文字データに起こし、きょうだいに送ってくれました。このコンピューターは、私の妹の夫・耀欽が母に贈ってくれたものです。耀欽にも、とても感謝しています。
 文字起こしされたデータは、きょうだいから孫へと転送される形でシェアされました。皆で読み、推敲した後は、母の孫にあたるオードリーが編集とレイアウトを、同じく孫の奕璇と唐翎がカバーデザインを担当して仕上げてくれました。

 印刷して出版された紙の本は、周囲の友人たちに配りました。しばらくした後、オードリーは母の同意を得て本書をデジタル化し、インターネット上で誰でも無料で読めるようにしてくれました。

 民国99年(訳注:西暦2010年)の夏からその翌夏まできっかり一年、私たち兄弟姉妹、娘婿、嫁、孫たちは皆誰もが毎週母が書く奮闘物語の新編をとても楽しみにして過ごしました。読むたびに感動と反響を呼び起こし、母への敬愛の念が深まって行きました。
 と同時に、日本統治時代に小学校教育をたった四年間しか受けていない母が、なぜこんなに多くの道理を理解できているのか、子どもたちに教えを説くことができているのかと不思議に思ったものです。

 母の回顧録から得られた答えは、母が「幼い頃に家庭で薫陶を得ていたこと、そして人生で絶え間なく知識を求め続けた」ということでした。

 母は鹿港(ろくこう、ろっこう、ルーガン。訳注:彰化県にある地方都市。港町として交易で栄えた歴史深い場所)の名家に生まれ、「文開書院(訳注:文化教育を行う権威ある場所)」の助手を務める父方の祖父から多くの薫陶を得て育ちました。

鹿港の《文開書院》は1985年より彰化県の古跡に指定され、参観が可能。
(※筆者撮影、本書には収録されていません。)
現在の《文開書院》内部の様子。
(※筆者撮影、本書には収録されていません。)

 警察官だった父は漢文を愛し、詩を詠んだり作ったりすることが好きでした。生みの母、二番目の継母を早くに亡くした母でしたが、祖母から多くの啓発を得ていたようです。「婦徳(訳注:婦人が守るべき道徳)」や閩南語のことわざ、格言などは、すべて祖母たちから教わったそうです。
 太平洋戦争で米軍からの空襲を受け、両親とともに埔里の山の方へ避難して学校に通えなくなった母は、祖父と北京語の塾に一年間通った以外、正規の学校教育を受けることなく生きてきました。それでも、文化的な背景の色濃い家庭に生まれたというだけで、早いうちから読書愛が根付き、それは今になっても衰えていません。

 母は幸せを追い求める意志が非常に強く、それはきっと天性のものだと思います。
 母は二回ほど親戚の家に送られたことがあると話していましたが、号泣して反抗したことで、二回とも両親のところへ戻ることができたそうです。
 もし母が運命を受け入れるようなか弱く従順な女性であったなら、彼女が蔡家で育つことはなく、まったく違った人生を歩んでいたことでしょう。

 この回顧録には、母が三番目の継母による抑圧を受け入れられず、人生を託そうと思える外省人の男性と出会ったというエピソードが書かれています。母は、自らの両親や姉からの猛烈な反対を顧みることなく、知恵を絞って家族の長老や空軍支部長、鹿港警察署長らの支持を勝ち取り、最後には祖父の了解を得て、素晴らしい「本省人と外省人の通婚」を成し遂げました。当時の母はまだ18歳にもなっていませんでしたが、自分で運命を切り開く決意をしたのです。

 母は幸せと自由のために、外省人の空軍士官長に嫁ぎました。「二二八事件」から四年も経たないうちにそのような選択をするのはとても危険なことでした。年長者の中には「もしこの婚姻が三年維持できたなら、喜んで自分の耳を切り落とそう」と罵る者までいたそうです。
 幸いなことに、最も母を可愛がってくれた祖母と叔母がこっそり祝福し励ましてくれたおかげで、母は勇気を出し、見知らぬ外省軍人や「軍眷(注釈:軍人やその家族たちが集まって暮らしていた集落。「眷村」とも呼ばれる。)」の世界に入ることができました。
 さらに運が良かったのは、この四川の空軍からやって来た兵隊さんは温厚な性格で、男性優位の考え方がなく、全身全霊で妻や家族を愛する男性だったことです。
 母が一つひとつ思い出を綴った文章は、自分と同じように育った世界を離れた外省人の兵隊さんと運命を共にし、支え合い、子どもたちを産み育て、幸せを築いていく過程そのものです。


 私は長男として、両親が二人とも働かないと家族の生活が成り立たないほど家計が苦しいことを早くに知るべき立場にいながらも、それを知らずに育ちました。母と父の間には昔から、子どもたちに家計の苦しさを知らせまいという暗黙の了解があったようです。彼らはいつも子どもたちが学業に専念し、楽しく暮らすことを望んでいました。

 幼い頃も、物心がついてからも、私は両親が悩み苦しむ様子を見たことがありません。記憶の中の両親はいつも協力し合い、家事を分担し合っていました。特に父は、母が洋服直しや手伝いに出ていた幼稚園での子どもたちの世話で忙しい時、よく料理をしたり、母の洋服直しを手伝っていました。
 そのおかげで、私たちきょうだいが大きくなった後に思い出すのは、どれも良いことばかりで、物質的な貧困が残した陰影はどこにもありません。我が家は暮らしていた眷村で最後に冷蔵庫やテレビを購入した家庭でしたが、私たちきょうだいは皆、子どもの頃の暮らしは精神的に豊かだったと感じています。

 私が高校に上がった後、母が眷村の共同トイレを清掃するため、母ときょうだいたちが雨風の中、一キロ先の老梅海岸までモーターで水を汲みに行くのを見た時に初めて、両親が家計を支える苦労を実感し、私を高校に行かせることが簡単ではないと知ったのでした。

 高校や大学生の頃に気持ちが落ち込むと、いつも母が毎晩ミシンに頭を埋めて仕事をしている姿、眠気と戦う姿を思い出しては自らを奮い立たせていたものです。母のことを思うと、気を緩めたり塞ぎ込むことなどできませんでした。

 本書には、姉の春蘭が看護学校を卒業して社会人になって以降、両親の負担を軽減しようと初月から給与の半分を家に入れていたと書かれていました。本来ならその責任を真っ先に担うべきは私のはずでしたが、姉は自分が大学に行く機会を犠牲にして、その責任を引き受けてくれたのです。
 私は四年間の大学生活のうち、三度の夏休みに第一原子力発電所でアルバイトをした以外、授業のある期間はアルバイトをせず、ひたすら知識欲を満たす大学生活を過ごしていました。

 当時の両親の経済的なプレッシャーや、姉の親孝行に比べると、私は両親からたくさんの愛や姉からの支持を受けてきたと思います。大学時代の自由な時間を思い浮かべる度、美しい充実感とともに、深い罪悪感にさいなまれます。当時の自分がアルバイトをして両親の負担を軽減させるべきだったと思うと、今でも姉に対しては返すことのできないほどの恩を感じています。

 また、本書には妹の春芳が五年間アルバイトをしながら大学に通ったとも書かれています。長距離通学の苦労を厭わず両親の経済負荷を減らした妹は、私よりも両親思いです。

 母は自らの運命を変え、自らが幸せを追い求める希望のすべてを、子どもにより良い教育を受けさせることに託しました。その強い気持ちがあるからこそ、どんな困難や挑戦にもひるむことなく、父と手を取り合って克服してきたのでしょう。
 本書で母は、自身の教育信念は長男を弟や妹たちにとっての模範となるようしっかり教育し、子どもたちを勉学に励むより良い人物にすることだと書いています。
 長男だった私は、幼い頃から野原や海辺に遊びに行くのが好きで、よく食事の時間を忘れては母を心配させたり怒らせたりしていて、叱られたり叩かれていました。当時の私は母に対していくばくかの恨みを込めて「僕は四人の弟や妹たちよりも多く叩かれる」と文句を言っていましたが、あの頃の母は長男をしっかり教育しようという哲学を持っていたのだからだと、今になってやっと母の苦労が分かるようになりました。

 私たち五人きょうだいの記憶の中で、人となりや物事の道理を教えてくれたのは母であり、優しくて無口な父とともに、人生を通じて子どもたちに薫陶を授けてくれました。

 母の逆境を克服する精神力は、天性のもの以外にも、家庭での教育、そして戦争後期と復興初期の苦難に鍛えられて築かれたものです。その後の民国15年にカトリック教の洗礼を受けて以降、信仰が母の心の支えになっています。
 父が民国38年に台湾に来た当時、荷物の中には中国のバプテスト伝道所から持ってきた聖書があったそうです。これは私が四年前、父に昔のことを話してほしいと頼んで初めて知ったのですが、父はこの数十年間、一日も欠かすことなく毎日祈りを捧げてきたのだそうです。
 母は毎朝早く、聖像に向かってお辞儀をし、欠かさずにロザリオを唱えます。昨年の夏に父親が脳卒中を起こすまで、両親はどんな天気でも毎週日曜に必ずコミュニティバスに乗ってカトリック教会のミサに出席していました。両親の心の中には主・イエスキリストと聖母マリアがあり、人生に降りかかるどのような嵐をも恐れることはなかったのでしょう。

 母は子どもたちにより多くの教育を受けさせることを望む一方で、自身も新しい知識を吸収することに熱心です。
 当初、本書には母自身が知識を追求することについての文章は書かれていませんでした。母は自分自身を良く書きたいと思っていなかったのですが、私が何度も頼み込んだ結果、書くことに同意してくれました。

 そしてこのほかにもう一つ、本書には書かれていないけれど紹介すべきだと思う、母の性格があります。それは公共の議題に関心を持ち、熱心に人を助けるということです。眷村で暮らしていた頃、近隣に住む多くの母親たちは心に不満を抱えており、よく話をしに母を訪ねてきました。母は眷村で多くの人が信頼する傾聴者であり、眷村の二代目たちも“唐ママ”と話をするのが大好きでした。

 この十年近い歳月、母と父は淡水で暮らしており、私たちきょうだいや孫たちは彼らを心配せずに過ごせています。母は当時よりも国政に関心があり、テレビのニュースを見るだけでなく、毎日必ず新聞の社説、言論欄やコラムにまで目を通しています。深刻な政治問題を目の当たりにした時などは、批評と励ましを織り交ぜながら「光華、あなたは政治を学んだのだから、政治に携わって政治を良くするべきです」と批評半分励まし半分で勧めるほどです。私は「権力争いに耐えられない自分は、政治には不向きだよ」と母の提案を断っています。よその母親たちは子どもが政治に近付かないよう説得すると聞いたことがありますが、私の母は政治に参加するよう常に勧めてきます。母は幼い頃に祖父から多大な影響を受け、王朝の盛衰についても祖父の教えを受けていたから、今でも政治に対する関心が高いのでしょう。

 本書を読んで最も印象深かったのは、父と共に子育てする過程で私たち家族を助けてくれた全ての恩人たちに、母が心から感謝していることでした。

 彼らの結婚初期に熱心にパートタイムの仕事を紹介してくれた本省人の大家の娘さん、結婚初期に暮らした台南の眷村で、母が姉のように慕っていた外省人の女性たち。老梅エリアの眷村に越してから知り合った本省人・外省人の母親たち。カトリック教の神父、空軍部隊の長官たち、予備軍官役の徐振國さんや服兵役の王さんらは、さまざまな時期に両親や私たちきょうだいにとって重要な支持をしてくれた恩人たちです。こうした方々の助けがなければ、両親は五人の子どもたちに良い教育を受けさせることなどできなかったでしょう。


 昨年の七月に父が脳卒中を起こし、母は初めて途方に暮れていました。私たち五人きょうだいが協力して母に付き添ったり、老梅眷村の年長者や二代目たちが絶え間なく励ましてくれたおかげで、母はやっと落ち着きを取り戻すことができました。彼らには心から感謝しています。眷村の助け合いの文化は、長い時間の流れによって薄まったり、壊れて消え去ったりすることはないのです。

 母の物語は、台湾の一つの世代の物語だと言うこともできるでしょう。平凡な母ですが、平凡とはほど遠い時代を生き抜いてきたことで、全く平凡ではないように見えてきます。

 本書が特別なのは、本省人と外省人の関係の変化が反映されている点です。誤解から排斥、理解に至るまでの受容と融合の変化は、過去60年間にわたる、台湾のエスニシティ融合の歴史の縮図です。

 民国50年以前の眷村エリアには、外省人の妻たちが多く暮らしていました。母はすぐにそこに溶け込み、長年にわたり年長者たちからの協力を得てきました。母自身も積極的に彼女たちとの友情を育んでいました。母が私たち子どもを厳しくしつけたのも、本省人の女性として外省人たちから尊敬を勝ち取りたいという想いがあったのでしょう。外省人の妻たちに本省人が見下されることを望んではいませんでした。

 母が生家に帰る回数が増えるにつれ、母の親戚たちーー特に父方の祖父母と叔母ーーは、母が幸せな暮らしを送っていて、子どもたちが十分な教育を受けているのを見て、結婚当初の心配は安心に変わり、受け入れるようになって行ったようです。
 さらに外省人の兵隊であるお婿さんとその義理の兄弟がとても木訥で素直で、心から妻や子どもたちを大切にしているのを見て、彼女たちはより安心し、喜んだのでしょう。
 私の記憶では、彰化県の和美に戻って祖父や二番目の叔父の家、梧棲の叔母の家、大溪の二番目の叔母の家、八卦山の三番目の叔母の家、員林の五番目の叔母の家などにいつ戻っても、両親は温かく迎え入れられていました。 
 そこにはもう、差別や拒絶といったものは微塵も残っていませんでした。
 少年時代の私が親戚の家に行く度に、母と彼らの間に愛情を感じましたし、多くのいとこたちも私と仲良くしてくれました。子どもの頃に梧棲ごろう(訳注:台中西部の地名)の漁港や海辺で楽しく遊んだ頃の光景を、今でもはっきりと思い出します。

 優しくて親切な祖母と祖父の印象は今でも深く残っています。

 母が本書で「祖父は台湾最北端の海辺に嫁いだ四女に会うために、一人で老梅まで行った」と書いていたように、私も寡黙で優しい祖父の暖かい、それでいて無限の感情が隠されているような眼差しを忘れることができません。母の回顧録を読んで、あの眼差しには母の結婚に当時激しく反対したことへの申し訳なさがあるのかもしれないと思うようになりました。
 私が最後に祖父を見たのは、和美にある叔父の家でした。当時祖父は70歳を超えており、上咽頭じょういんとうがんを患っていました。ラタンの椅子に腰掛け、手に古書を持った祖父は、私が隣に立つと、懸命に本を読んで聞かせてくれました。

 母は本書で、自分達の結婚に猛烈に反対し、両親と自分との関係を妨害したのは三番目の継母であると書いています。母が和美に帰った際、私も何度か彼女に会いましたが、その頃にはもう排斥を感じませんでした。母が子どもたちの教育に成功したことが、三番目の継母の硬い心を溶かしたのでしょう。

 母の回顧録を読み終えた今、私は一言だけ伝えたいと思います。

「敬愛なるお母さん。あなたが子どもや孫に与えてくれた何物にも替えがたい贈り物に感謝します。私たちはあなたや父を誇りに思っています。あなたや父を手本に、親切であること、困難を恐れないことを家族に伝え、世代から世代へと受け継いでいきます」

ツァイ・ヤーバオにとっての長男・唐光華は、オードリー・タンの父。
抱えているのは、幼少の頃のオードリー。
(※提供:唐光華/オードリー・タン、本書には収録されていません。)

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