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第38章 子どもが成長した後 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

訳者補足:オードリー・タンの父方の祖母、ツァイ・ヤーバオの自伝『追尋 — 鹿港から眷村への歳月』の第38章です。

※ 原文内容の事実確認による検証・訂正などはせず、そのまま記載しています。

 三男・光義の成長過程において、我が家には大きな変化がありました。

 彼が高校三年生の頃、長男の光華と長女の春蘭がそれぞれ一年差で結婚したのです。

 ですから、彼が入院した時、我が家には長男の妻、長女の夫がいました。

 当時の長男・光華の妻(訳注:リー・ヤーチン、オードリー・タンの母)と長女・春蘭のお腹にはそれぞれ新しい命が宿っていましたが、彼女たちは毎日病院までお見舞いに来てくれました。次女の春芳にも当時は良い彼がおり、彼は三男・光義の手術後、私たちに付き添い、私のことを励ましてくれました。次女・春芳と彼は長い間交際しており、彼が大学院修士号を取得したタイミングで結婚しました。

 次男の光德は次女・春芳より一年早く結婚しました。次男・光德は兵役を終え、新竹にある経済部所属の工業技術研究院機械研究所で働き、仕事が落ち着いてきた頃に大学時代から付き合っていた彼女と入籍しました。次男・光德の彼女はすでに何年も待ち続けていましたので、光德が働き始めて半年で結婚式を挙げ、ライフイベントを成し遂げたのでした。

 下の子どもたちが結婚した頃、私たち夫婦は長男の台北の家に引っ越して来ていました。

長男・光華の妻(訳注:リー・ヤーチン、オードリー・タンの母)は子どもが生まれてもまだ仕事をしており、私は彼女の産後ケアを手伝いました。本来なら、産後ケアが終わったら老梅天主堂の幼稚園に戻って働こうと思っていたのですが、可愛い孫のために台北で赤ちゃんのそばにいることに決めました。

 当時、長男・光華は台北に2リビング3部屋の部屋を購入していました。
 それまで夫は原子力発電所で働いていたのですが、長男・光華は夫に危険な仕事をさせたくない一心で、仕事を辞めて一緒に住もうと言ってきたのです。長男夫婦は次女にも越してくるよう勧め、皆で住めるようにとマンションの上の部屋を借りていました。

 民国70年(西暦1981年)の年末、こうして私たち唐家は23年間暮らした銘德⼀村を離れ、全員で台北で暮らし始めました。

 もっとも、銘德⼀村の家はその後も19年ほど保存され、長男は一度改修工事をしたこともあります。

 5人の子どもたちはよく、子どもたちを連れて昔の小さな家に帰っては、老梅の海辺で泳いだり、眷村の裏の砂浜を登ったり、美しい天人菊(テンニンギク)や野百合を探したり、以前夫が勤めていた場所や灯台を眺めては、子どもの頃の話を聞かせていました。

 銘德⼀村は最終的に、民国89年(西暦2000年)に取り壊されました。

私たちの銘德⼀村は40戸しかない最も小さな眷村でしたが、「國軍退除役官兵輔導委員會(訳注:引退した軍人を管轄する委員会)」が推進する古い眷村のリニューアル計画において、私たちの隊の補導官、眷村の村長、崔さんの奥さん、そして鄉公所で働いていた眷村二代目の黃さんらの尽力のおかげで、私たちの眷村・銘德⼀村は全員が一緒に引っ越すことができました。

 申請から承認まで二年近い時間を費やし、眷村全体は一緒に內政部營建署が淡水新市鎮に建てたばかりの模範コミュニティエリアへと移り住みました。

 淡水新市鎮はシンガポールの国民住宅を参考にして建てられたニューシティで、公共設備が完備され、全部で600戸以上あります。

 私と夫は南向きの部屋を選び、頭金を支払って部屋の所有権を獲得し、移り住みました。私たちが結婚して初めてとなる、自分の不動産です。

 眷村全体で一緒に引っ越してきたので、一時的に別の場所で暮らしていた古いご近所さんらと再会することができ、仲の良い友人たちとまた一緒に暮らすことができて、本当に嬉しかったです。ほんの20数年会わないうちに皆7、80歳のおばあさんになっていました。歳月人を待たずとはよく言ったものですね。

 それでも、今の私は孫や子どもたちに恵まれ、家族で集まろうとするとテーブルが2つ3つ必要になるほど大所帯になりました。

 最も嬉しいのは五人の子どもたちの誰もが家庭円満で仕事も順調であることです。11人の孫たちの学業も芳しく、将来が楽しみです。

 去年の夏に夫が中度の脳卒中を患った時にも、医者が良い治療をしてくれて、五人の子どもたちや眷區の崔さんの奥さんや梅花、秀蘭たちが全力で支えてくれたおかげで、夫は順調に回復することができました。

 さらに子どもたちは、私と夫の面倒を見るようインドネシアからお手伝いさんを迎えてくれました。私たち夫婦にとって、健康で親孝行な子どもたちと温かいコミュニティエリアはかけがえのない存在です。

 私は今年80歳になりました。

 18歳で夫に嫁ぎ、二人で努力しながら自分たちの人生を築き上げてきました。過去を振り返ると経済的に苦しい時期もありましたが、子どもたちのために奮闘する時の心は、希望や幸せに満ち溢れていました。
 主に感謝します。


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