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第28章 長男の高校受験 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

訳者補足:オードリー・タンの父方の祖母、ツァイ・ヤーバオの自伝『追尋 — 鹿港から眷村への歳月』の第28章です。

※ 原文内容の事実確認による検証・訂正などはせず、そのまま記載しています。

家族の集合写真。

 民国56年の8月末、夫は長男を連れて台北の成功高校に入学手続きしに行ったついでに、近くに学生寮がないかと尋ねました。親切な教官は夫が軍人で、階級も高くないことを見て取ると、家計が苦しいに違いないと察して、すぐに「台北学苑」への入寮を申請するよう紹介し、申請書まで渡してくれました。夫と長男は喜び、教えてくれた教官に感謝しました。


 蒋介石が中国青年救国団の主任だった頃、一人の高校生が学生鞄を抱いたまま電車の駅で眠っているのを見かけて声をかけたところ、「私は外地から来ました。台北の高校に合格しましたが、家が貧しいので部屋を借りることができず、こうして夜は電車の駅を寮代わりにしています」と答えたので、蒋介石はすぐに立派な学生寮の設立計画を立て、外地から台北に来た貧しい学生たちを安く住まわせることにしたのが台北学苑です。我が家の子どもたちは長女以外、ほかの4人は皆、台北学苑で暮らしたことがあります。

 長男の高校一年生一学期が終わろうというある日曜日、私は台北に住むいとこを訪ね、長男の担任教師のところに連れて行ってくれるよう頼みました。いとこの旦那さんはもともと成功高校の教師で、そこから省立の交響楽団(訳注:現「国立台湾交響楽団」)の指導者に転職したので、長男の担任教師と一緒に働いたことがあり、良き隣人でもありました。

 いとこの旦那さんの紹介のおかげで、私たちは順調に担任教師の家に到着することができました。

 私が「一学期が終わろうとしていますが、息子に何か問題はないでしょうか? 保護者が注意すべきことはありませんか?」と質問すると、教師はちょっと考えて、「彼にガールフレンドはいますか?」と聞き返しました。

 いないはずだと答えると、教師はまたちょっと考えてから、「彼は身長が高く、一番後ろの席に座っています。あまり口数が多くないのですが、何か考え事があるようですね。こうしましょう。彼の成績はまずまずですが、英語がいまひとつです。お宅の近くの部隊に兵役中の大学生がいたら、夏休みの間、彼らに頼んで息子さんの英語を強化されてはどうでしょうか」と言いました。

 私がアドバイスに感謝をしてお暇しようとすると、教師は私といとこを玄関口まで見送りながら、「唐奥さん、私はあなたを尊敬します。子どものために忙しいなか、こんな遠くまで来て息子さんの学校生活に関心を寄せ、さらにそれをお子さんに知られないようにするなんて」と言いました。私は恥ずかしくなって、教師といとこに別れを告げました。老梅に戻った時には、午後の5時になっていました。

 私は家で服の修繕をしており、多くの兵役中の若者たちが私のところに新しい服を持ってきて、お直しを頼んでくれていました。そのため、私と兵役中の若者たちは仲が良かったのです。

 台北から戻った後、私は家に良く来る兵隊さんたちとおしゃべりする機会を持ち、息子に英語を教えてくれる兵役中の大学卒業生を探してくれるよう頼みました。毎週2回、1回に1時間。相場が分からないので、お代は相手に任せることにしました。

 皆が喜んで手伝って探してくれ、最終的には砲兵部隊で指導官を務める兵役生に頼めることになりました。仕事帰りの夜、夕食を食べてから授業に来てくれます。

 夏休みの二ヶ月間、彼は息子に英語を教えてくれたうえに、お金は受け取らず、無料で授業すると言いました。そればかりか、「あなた方の家には学校に通う子どもがこんなにたくさんいて、きっと家計は大変でしょう。私はたいした手助けもできませんので、どうかお気になさらないでください」と言うのです。私は感動して涙が出そうになりました。

 彼は中隊長に夏休み期間、毎週2回、夜の7時半から8時半まで唐家の高校一年生の息子に英語を教えに行くことを報告し、許可を仰ぎました。中隊長はそれを承認し、「君のその熱心さ、私はもちろん承認しよう。だが、時間になったら急いで部隊に戻り、夜間の点呼には参加するように」と伝えたそうです。

 私たちは家に英語の授業をしに来てくれる兵役生を「先生」と呼びました。感謝の気持ちを示そうと、彼が来てくれる度に、私はいくつかの果物を準備して、授業が終わったら長男と一緒に食べてもらいました。食べ終わる頃には大体夜9時近くになっており、先生は「またね」と夜間の点呼のために急いで部隊へ戻りました。

 二人の娘たちは大きくなったので物分かりが良く、何も言いませんでしたが、二人の弟たちはまだ幼かったので、兄をうらやましがり、自分たちも先生と一緒に果物を食べたがりました。そんな子どもたちを見ていると辛い気持ちになりましたが、どうしても皆に買ってあげられる余裕がなかったのです。

 この素晴らしい先生は後に、長男の大学の先輩になりました。長男が大学を卒業した年、先輩は同じ大学の大学院を卒業しました。人生のご縁とは本当に不思議なものです。

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