見出し画像

第1章 三番目の継母 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

訳者補足:ツァイ・ヤーバオの自伝、ここから本編が始まります。

 1934年、私は日本統治時代の台湾の彰化、和美わびちん(訳注:鎮は台湾の行政単位で「町」に相当)の伸港という場所で生まれました。戸籍は鹿港ろっこうです。私は四人目の子どもで、双子の妹とともにこの世界に生を受けました。

非常に粗くて申し訳ありませんが、主な地名のだいたいの位置関係を
現在のGoogleマップで示してみます。
(※筆者作成、本書には収録されていません。)
台湾全土の中におけるだいたいの位置関係を現在のGoogleマップで示してみます。
東側すぐ近くに沖縄の先島諸島が見て取れます。
(※筆者作成、本書には収録されていません。)

 当時、「鹿港の蔡家」といえば地元では知られた存在で、家もそれなりに裕福でした。私の母は長女と次女、長男と三女、私と五女を出産しました。

写真左から:三女、長男、父、私(四女)、二番目の継母、長女。

 私を産んだ時、母は35歳でした。五人の子どもたちを育てるのは非常に大変で、使用人の助けはあったものの、母の身体はとても弱っていました。

 妹と私が一歳になり、ちょうど歩き始めたある日、母は近所の病に臥したおばあさんの見舞いに行きましたが、それから二日後に風邪をひき、そこから急性脳膜炎へと悪化させてしまいました。母は、発病からわずか九日後に息を引き取りました。

 当時の母はまだ37歳で、家族の誰もが母が突然この世を去ったという事実を受け入れることができないまま、途方に暮れていました。

 母の遺体は鹿港の実家に戻され、リビングに安置されました。
当時4歳だった三女は母が亡くなったことが分からず、ずっと「ママ起きて!寝たらだめ!遊びに連れて行って!」と泣き叫んでいました。
 三女が母の遺体を揺するのをやめないのを見たその場の大人たちは、誰もが泣いていました。当時長女はわずか10歳、次女が9歳、長男7歳、三女4歳、私と妹は一歳半でした。

 当時の父は警察官をしていました。
 公務が忙しく、母の後事を処理して間もなく、人から紹介された相手と再婚しました。それが私たちの二番目の継母です。

 二番目の継母が家に入る前、家の方針で、私は柯家(訳注:柯さんというよそのお家)の養女にされそうになりました。ただ、柯家に着いた私がずっと泣き続けたものですから、相手側はたまらなくなって私を送り返したので、代わりに私の双子の妹が柯家の養女として柯家に送られることになりました。
 次女もまた、子どものいない大伯母のところへ送られることになりました。

 二番目の継母が私たちの家に嫁いできたのは彼女が28歳の時でした。人柄は良く、三女と私を育ててくれました。長女と長男は二番目の継母と意見が合わず衝突することがありましたが、それほど深刻ではありませんでした。

 1944年、八女が2歳半の頃、不幸にも二番目の継母は肺結核を患いこの世を去りました。彼女が我が家に嫁いでちょうど10年、38歳でした。

 残されたのは、三女と私、そして彼女が産んだ弟一人と三人の妹、計四人の子どもたちで、二番目の継母が亡くなってから、私たちの暮らしは非常に困難なものになりました。

 1945年は日中戦争が最も激しい時期で、台湾はアメリカ軍のB29による爆撃を受け悲惨な状況でした。

 当時の私たち一家は台中で暮らしており、父はタイヤ会社で働いていました。多くの子どもたちを父一人で世話するのは難しかったので、小さな二人の子どもを一時的に親戚や友人宅へ預けなければなりませんでした。

 ちょうど三女が小学校を卒業して私が五年生に進級し、弟が七歳、六女が五歳になるタイミングでした。父は男手ひとつで何人もの子供を育てながら仕事をしなければなりません。家事は三女が引き受けましたが、子どもには処理できないようなことがたくさんあります。日々の生活や家計の管理などを切り盛りする女主人がいない状態で、どうしたら良いのか本当に分かりませんでした。

 ちょうどその頃、近所の陳おじさんが「多くの若い男性たちが軍役で南洋へと派遣されて行ってしまったから、年配の男性に嫁ぐ気になったようだ」と、女性・陳さん(訳注:陳おじさんとの家族関係かどうかは不明)を紹介してくれました。

 陳おじさんは彼女を連れ、私たちの家や子どもたちの様子を見にやって来ました。
 その時私と三女、弟、六女は昼食を食べており、陳おじさんは彼女に「この家は他にも二人の娘たちが別の家に養女に入れられている。結婚するとなったら連れて帰ることになるから、よく考えなさい」と言いました。

 彼女は少し考えてから、「二人の子どもたちを連れて帰らないと約束してくれたら、彼に嫁ぎましょう」と答えました。陳おじさんはこの条件を父に伝え、父は二日間考えた後、彼女の条件を受け入れることにしたのです。

 すでに物事の分別があった三女は「二人の妹たちに申し訳ない」といって憤慨しましたが、父の言い分はこうでした。
「今は家に大人がいない非常時なんだ。お父さんがオフィスにいる時に空襲警報が鳴ったら、家の子どもたちをどうしたら良いか分からない。私がどれだけ心配か分かるかい?」

 納得がいかない三女でしたが、父の主張に反対するのをやめました。陳さんが私たちの家の三番目の女主人になったのは、それから間もなくのことです。

 戦争がますます激しくなり、私たちの家の隣には砂糖工場があったため、戦闘機が頻繁に家の近くを巡回飛行するようになりました。機関銃の音は非常に恐ろしく、三番目の継母はとても怯えていました。

 ある日、叔父が新しいお嫁さんに会うために、はるばる南投県埔里鎮の北山坑から来てくれたことがありました。叔父と三番目の継母はすぐに意気投合し、話題は自然と日中戦争の話になりました。空襲について話が及ぶと、三番目の継母が叔父に「私たちが暮らしている場所は砂糖工場に近く、砂糖工場は敵機が破壊する目標物なので私はとても怖いのです。家にはこんなにたくさん人がおりますので、とても心配しています」と言いました。

 叔父は彼女に私の父を説得して、家族全員で彼の住んでいる北山坑に避難するよう提言しました。そこは四方を山に囲まれた小さな村で、叔父はそこでクロツグを生産する小さな工場を経営していました(当時クロツグは、蓑やブラシなどの製造に用いられていました)。

当時、作者たちが暮らしていた台中(地図上では臺中と表示)と、
叔父が暮らしていた北山坑の位置関係を現在のGoogleマップで示してみます。
(※筆者作成、本書には収録されていません。)

 三番目の継母は家族で叔父のところへ避難しようと提案しましたが、当初、父は反対しました。私たちは大家族で、なかには纏足てんそくで小さくなり行動不便になった足を持つ祖母もいます。さらに、山中に越すとなると父は仕事を辞めなければなりません。収入がなくなったら大勢の家族をどのように養えば良いのでしょう。生活費用も一つの大きな問題です。

 父は言いました。
「いつまで戦争が続くか分からないし、もし山の中へ移るとしても、貯蓄を使い終わったらどうするんだ? よく考えてから話そう」

 叔父が去った後も、三番目の継母は空襲警報から隠れて山の中へ移ることを再三要求しました。抗えなくなった父は、仕方なく応えるしかありませんでした。

 1945年の春節を迎えた直後(訳注:同年の10月25日に日本統治時代が終了を迎える、統治時代の終わりの時期)、私たち一家八人は、大きな引越し業者のトラックを借り、三度の空襲警報をかいくぐり、なんとか夜に叔父の住む場所へと到着しました。その日から、私たち一家は山の中で生涯忘れられない八ヶ月を過ごすことになったのです。

作者のヤーバオさんから見た、蔡家の家系図
※写真はクリックで拡大できます

こちらでいただいたサポートは、次にもっと良い取材をして、その情報が必要な誰かの役に立つ良い記事を書くために使わせていただきます。