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【オードリー・タンの思考】「小唐鳳でありたい」拙著のインスピレーションになった、ひとつのツイート。

拙著『オードリー・タンの思考』が2月18日に発売になってから、まもなく1カ月が過ぎようとしています。
おかげさまでたいへん好評のようで、Amazonは初日で完売し、書店さんでも在庫無しの状態が続いておりました。
発売後6日目にして重版が決定し、3月8日に2刷が刷り上がり、ここ数日で書店さんにまた並び始めているようです。Amazonにも在庫が反映され、無事にご予約くださった皆さまへ発送され始めたとのこと。これでやっと、ホッとすることができました。

執筆はとても孤独な作業でしたが、ハッシュタグなどを付けて各種SNSに投稿してくださっている感想を拝見すると、この本のコンセプトである「一人の天才を生むことは難しいが、一人一人の心に小さなオードリー・タンを宿そう」に共感してくださる方がどんどん増えているのを感じています。

重版によせて、コンセプトメイキングのお話を。

そこで、重版によせて、このコンセプトが生まれるまでについての物語をご紹介してみたいと思います。

このコンセプトについて、拙著のまえがきから、以下に一部を抜粋します。

一人一人の心に、小さなオードリー・タンを宿す

私は2020年4月に日本のメディアに寄稿した中で、こう書いたことがある。

「日本にもオードリー・タンはきっといる。肝心なのはそのような人材が、たとえ皆が思い描く政治家のイメージと幾ばくか違っていたとしても、より良い社会のためにその人物を起用できるかということだ」〈インタビューで垣間見たオードリー・タンの素顔〉(2020年4月ニッポンドットコム)

この記事を読んだ方から「彼女の0.01%くらいかもしれないけど、いろんな人の力になれる小さなオードリー・タンでありたいと思う」という感想を頂き、ハッとした。自分ではない「誰か」を探すより、もし誰しもが心の中にオードリー・タンを宿すことができたなら。そんな人を社会に増やすことができたなら。社会がもっと居心地の良いものになると確信した。

このような経緯から、人生初の著書のコンセプトが私の中で生まれた。

「一人の天才を生むことは難しいが、一人一人の心に小さなオードリー・タンを宿そう」

本を書くためにオードリーへのインタビューが始まった初日、このコンセプトでいきたいと率直に伝えると、彼女は「それは良い」とうなずき、こう言った。

「これからあなたが本を出す前に、少なくとも2つの日本の出版社から私に関する本が出ます。どちらも私の過去の仕事を作品集のようにまとめ、通っていた幼稚園のことまで細かく書いてくれたものです。あなたの話を聞いていると、読者が社会改革や革新に参加できるようになってもらいたいという、“ソーシャル・イノベーション”がテーマである点が、それらの本と違うように思えます」

とたんに、私がぼんやりとイメージしていた「自分の中に小さなオードリー・タンを宿す方法」の一つが、彼女が今、台湾政府の中で推進している「ソーシャル・イノベーション」であると気付き、一気にこれから書くべきことのイメージの解像度が上がった。

彼女の人生をまとめる伝記ではなく、これまでの日々に彼女が何を思い、どのように考え、どう行動しているかについて考えてみたい。これが、政治ジャーナリストではなく生活者視点で物書きをしている私が、本書を書くにあたって大切にしたことである。

上記でオードリーさんが話されている二冊の本とは、アイリス・チュウさんと鄭仲嵐さんという、お二人の台湾人ジャーナリストによる共著『Au オードリー・タン天才IT相7つの顔(文藝春秋)』と、李登輝元総統の日本人秘書である早川友久さんがインタビューと翻訳を担当された『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る(プレジデント社)』のことです。

私の本の取材は、オードリーさん側の意向を受け、これら二冊のインタビュー取材の完了を待ってから開始されました。
上記まえがきで書いたのは、待ちに待った取材が始まった初日、私が想いをお伝えした時のエピソードです。

今回は、本には書けなかったけれど、この「小唐鳳(小さなオードリー・タン)」というインスピレーションを与えてくださった方の存在について、書いておきたいと思います。

ことの始まり

2019年12月に公開されたYahooニュースの特集記事『「国民が参加するからこそ、政治は前に進める」――38歳の台湾「デジタル大臣」オードリー・タンに聞く』は、公開後にものすごい反響をいただきました。

その感想の多くが「台湾はすごい、それに比べて日本は」とか、「オードリーさんに日本に来てほしい」といったものでした。

一方で、「オードリーさんも素晴らしいし、台湾社会も素晴らしい」という声があったのは、個人的にとても嬉しかったです。

オードリーさんの類稀な才能と、そんな彼女に活躍の場を与える台湾の社会。今の日本にオードリーさんが行ったとして、日本社会や政府の中で、オードリーさんは台湾と同じように活躍できるでしょうか。私にはとてもそうは思えません。

だからこそ、まずは日本の社会を、オードリーさんのような能力を持った方を活躍できるようなものにすることが大切なのではないかと思ったのです。

そのことについて、ニッポンドットコムへの寄稿『インタビューで垣間見たオードリー・タンの素顔』で以下のように書きました。

「オードリー・タンは台湾の希望」

特集記事への感想で、「オードリーさんのような大臣がいる台湾がうらやましい。」という声を数多くいただく。

確かに、台湾人は口々に「オードリー・タンは台湾の希望」と語る。

それは彼女が天才的な頭脳や技術を持ちながらも「公僕の公僕」として公益のために身を投じ続けていることに対する賛辞だ。

オードリーさんは常に特定の団体に帰属するということはなく、官民や、意見の異なる人々がスムーズに合意に至れるようサポートするといったスタンスで政治に参加している。

それは2016年に史上最年少で入閣する前、2014年の「ひまわり運動」で民間と議会の対話をデジタル技術でバックアップした頃からずっと続いている。

そして、筆者は日本にもオードリーさんのような人材がきっと存在すると思っている。

肝心なのはそのような人材が、たとえ皆が思い描く政治家のイメージと幾ばくか違っていたとしても、より良い社会のためにその人物を起用できるかということなのではないだろうか。

オードリーさんが起用される台湾とは

台湾に移住してから「台湾は常に、手に持っているカードで精一杯戦っている」と感じている。

強国・中国の存在を常に感じ、世界から国として認められないことによる不利益を飲み込みながらもくじけることなく、自分たちにどれだけ実力があるかを国民や世界に対して示している。

オードリーさんの実績や能力に注目し、確固たる姿勢で大臣として迎え入れる台湾政府の姿からは、そのトップに立つ人々の柔軟性と、台湾の実力を高めることを最優先事項に据えた強い意思を感じさせる。

そして台湾社会も、そんな政治から目を離さずに見つめている。

台湾のリベラルな社会を守るために必要なものは支持するし、オードリーさんのように次々と実績を残す人物を起用した政府は肯定されていく。

自分と違うものを許容する社会と、国や自治体を政治家任せにするのではなく、自分たちが参加して作るのだという国民一人ひとりの強い当事者意識。台湾は、それらが筆者自身に欠けていたということを気付かせてくれた。

これをTwitterでシェアしてくださったのが、台湾に関する情報を収集・発信されている「おきらく台湾研究所」の研究員Bさんでした(以下、Bさんと記載)。

このツイートに、私が「ありがとうございます!日本にもきっといますよね。」とご返信したところ、さらに以下のお言葉をいただきました。


このやり取りをしたのが、4月12日。

この後、書籍のオファーを出版社からいただき、本のコンセプトを考えている中で、「小唐鳳、これしかない」と思い至ります。

コンセプトが決まるまで

私は当初「日本にもオードリーさんのような人はいるはず、ただ日本社会がそれを起用しないだけ。だから社会から変えて行こう」といった考えでいたのですが、Bさんのような考え方はとても素晴らしいと思いました。

オードリーさんのような考え方ができる人をたくさん増やすことで、結果的に社会が少し変わるという道筋の方がずっと素晴らしい、だからこれから書く本のコンセプトにしたい、とご相談させていただきました。

するとBさんは、こんな言葉をかけてくださったのです。

オードリーさんが紹介されるとき「天才」と呼んで賞賛する日本の読者の多くに、なんとなく「日本にもこういう人がいたらいろんな問題が解決してもらえるのに」というような、救世主を待望するような気持ちがあるように感じていたからです。そして、オードリーさんに限らず、台湾の対応を礼賛するときに、蔡英文であれ陳時中であれ、「こういうリーダーがいれば日本の新型コロナウイルスへの対応ももっと良いものになっていたのに」という形で語られがちであるようにも思っていました。

でも、nippon.comの記事で近藤さんがお書きになっているように、「国や自治体を政治家任せにするのではなく、自分たちが参加して作るのだという国民一人ひとりの強い当事者意識」こそが学ぶべきポイントだと私も思っています。湯浅誠さんが以前『ヒーローを待っていても世界は変わらない』というタイトルの本を書いていますが、強いリーダー・すぐれたリーダーがいれば解決するという思いは、そうしたリーダーに任せておけば自分は何もしなくていいし、無関心でいられるという思いと表裏一体だと思います。

残念ながら日本では、震災であれコロナであれその他の課題であれ、社会が直面する大きな課題について考えようとすると、自分自身の問題ではなくそれを代わりに考えてくれる誰かに任せようとする傾向があるように感じます。でも、台湾社会のさまざまな取り組みは、そうではなく「自分たちが参加して作るのだという国民一人ひとりの強い当事者意識」こそが重要であることを説得的に示していて、その点こそ日本社会で暮らす人たちは学ぶべきだと以前から思っていました。

実際、オードリーさんも「リーダー」ではないと思うんですよね。彼女は参加型の仕組みをつくる点で多大な貢献をしている人で、自分自身がトップに立ってリーダーシップを発揮するような形ではなく、多くの人が参加して改善を重ねてよりよい仕組みにしていく、そのための工夫をしているのであって、彼女自身であれ他の誰かであれ、特定の優秀な個人が引っ張っていく仕組みを作ろうとはしていないと思います。その意味で、オードリーさんは一貫して「一参加者」であり続けていると思っています。

だから、オードリーさんに学んだうえで語る言葉は、決して救世主としてのオードリーさん待望論ではなく、自分も当事者意識をもって社会をよい方向に動かすことに貢献する一人の当事者であるべし、という内容でなければならないと思ったのです。


これは、素晴らしい指摘だと思いました。

こんなやり取りを経て、私は「日本にもオードリー・タンが生まれるような社会」を目指すのではなく「自分がオードリー・タンになる」という方向にたどり着くことができたのでした。

ここで、「おきらく台湾研究所」さんってどんな人たちなんだろう?と気になったあなたへ。

ご紹介します!「おきらく台湾研究所」さんは、台湾をこよなく愛するご夫婦と、そのお子さんで構成されています。

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(実名・お顔出しをされていらっしゃらないので、Twitterのプロフィールを貼っておきますね。)

現在現在中学生の所長さんと、奥様の研究員Aさん、旦那様の研究員Bさん。

今からおよそ20年前、まだ所長さんがお生まれになる前、旅行で訪れた台湾に魅了され、リピーターになったのだそう。
特に、台湾社会で暮らしている人々について、興味を抱いたそうです。

10年ほど前にブログを開設、そして3〜4年前からは、イベントも実施されるようになりました。
(中には、我らが青木由香さんとのイベントも!)

そんな「おきらく台湾研究所」さんは、日々TwitterやFacebookでも情報を収集・発信されていて、私はいつも「コメントのそこかしこに光る洞察力」が気になっていました。

「おきらく台湾研究所」さんTwitter
https://twitter.com/okiraku_tw

「おきらく台湾研究所」さんFacebook
https://www.facebook.com/okiraku.tw/


本が出版されてからBさんへ本をお送りさせていただき、改めてお話を伺ったのですが、やはりBさんのお話は、上記のメールにも凝縮されている通り、「社会は一人一人からできているのだから、目立つ人に任せてしまうのではなく、一人一人がどのように社会に関与していくのかを考える方が望ましい」

「他の社会を見ることで、自分の社会の見え方が変わる」といったお考えを話してくださいました。

これには私も全く同意です。

そんなBさんが台湾から学べると思われていることは、「伝統的な価値観と相いれる術」。

台湾にも保守的な人はたくさんいるけれど、それを突破するだけの粘り強さが、台湾にはなぜか、あるんですよね。

「日本は、社会のあり方に関心を持ったり、疑問を抱くことが“良くないこと”とされるような雰囲気がありますよね。ちょっと興味を持っても、心のブレーキが作動して、諦めてしまうことが多々あるような気がしています。

台湾は、理不尽な制限が課されることがあると、若い人でもどんどん声を集めて動きますよね。そういうところも、『こんなやり方もあるんだ』と、台湾から学べるんじゃないでしょうか。」
Bさんは、こう締めくくってくださいました。

まだ続きがあるんです。そして、その数日後。

Bさんが、拙著を読んだ感想をブログに書いてくださったというではありませんか!

ブログのリンクURLはこちら
http://okiraku-tw.seesaa.net/article/480312042.html

そして、Bさんはこの本のことを「出発点になる本」だと言ってくださいました。これがまた、心底嬉しかったんです。

私は雑誌や媒体でコンテンツを作っていた時も、物書きをする時も、いつも、「読んでくださった方の心に、何か引っかかりを残せたら」と思っています。

私の文章は、読んでうっとりしたり、ほれぼれするようなタイプのものではありません。(文章力の問題かもしれませんが…)
でも、「何かが心に残って」「日々の暮らしにちょっとでも変化が起きたら」いいなと思っていつもお届けしています。

私の仕事は、自分のものではなく、人様のお話を色々とお聞きして、コンテンツにさせていただいて、成り立っています。
自分のものというよりは、人様から「分けて」いただいているものなんですよね。
だから、分けていただいたものを、それを必要としている方へ、編集してお届けすることこそが、私の存在価値なんじゃないかって思うんです。

そんな私にとって、「出発点になる」というのは、最高すぎるご褒美だなと思いました。

何よりも嬉しかったのは

社会の片隅で暮らしていると、こういった話をできることは滅多にありません。でも、文章を書き、インターネット上で公開することで、こうして素晴らしい指摘をしてくださったり、考え方を交換できる方と、すれ違えることがある。

この喜びは、何にも代えがたい体験です。

TwitterやInstagramなどでハッシュタグ「#オードリータンの思考」や「#近藤弥生子」などを付けてくださっている投稿を拝見しては、執筆時に一人で噛み締めていた感情を、さまざまな方と共有させていただいております。
最近の私は、どうにかなってしまうんじゃないかというくらい、幸せです。

最後になりましたが、すでにお読みになられた皆様におかれましては、
Amazonのレビューなども書いていただけるようでしたら、大変ありがたいです。ぜひぜひよろしくお願いいたします!

こちらでいただいたサポートは、次にもっと良い取材をして、その情報が必要な誰かの役に立つ良い記事を書くために使わせていただきます。