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創世記第18章1〜15節「暮らしの中に主を招く」

6月23日における尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。この日の題材は創世記第18章1〜15節「暮らしの中に主を招く」。

創世記第18章1〜9節
創世記第18章9〜15節


 創世記第18章の3人の旅人とは天使であった。中でもうち1人は、そのリーダーでもあった。イスラエルでは旅人をもてなすことが美徳とされている。ヘブライ人への手紙」第13省1〜11節にも「旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした」とある。旅人とは見知らぬ人であり、その中に天使という神の御使いがいた。背中に翼が生えているわけではない、ふつうの旅人であった。

アブラハムの天幕を訪れた3人の天使


 私の息子が2〜3歳の頃、大きなスーパーに買い物に連れて行った。迷子にならないように、ずっと手を繋いでいた。しかしエスカレーターに乗る時に、やむを得ず手を離した時に、予期せず息子だけが階上に残されてしまった。私は大声で「そこにジッとしていなさい」と叫んで、上りエスカレーターを駆け上がるようにして息子のところに戻った。幸いにして息子は場所を動かないでいた。しかしその時に年配のご夫妻が、息子をジッと見守って下さっていた。待っている間「お父さんが戻ってくるから、ここにいなさいね」と声をかけてくれていた。その場でお礼を言っただけで済ませてしまったが、今でも感謝している。
 ある説教者は「良い行いとは宝探しである。毎日のいろいろなところに隠されているものである」。アブラハムは天使たちを天幕の中に招いた。これは日常の日々の暮らしに神を招いたということである。礼拝で唱和する「使徒信条」では、神は全能であり、いつも私たちと一緒にいて下さると書かれている。私たちが神と共にあるのは日曜の礼拝の時だけなのだろうか?、月曜から金曜には他人行儀になっていないだろうか? 神はいつも私たちがそばにいることをお喜びのはずだ。
 プロテスタントだけでなくカトリックなど超党派で運営されている「オンライン黙想会」に出席している。その中である信者のことが紹介されていた。その方は独り暮らしだったが、自宅でお祈りする時は、いつも自分が座る以外に、もう一つ椅子を用意していた。彼によれば、そこにはイエス・キリストが座っているそうである。この方が入院した時に、牧師がお見舞いに来た。牧師が椅子に座ろうとしたら、「先生その椅子には座らないで下さい。その椅子はイエス様のものです。あちらにある、もう一つの椅子におかけ下さい」。この方はその翌日に、キリストの椅子に寄りかかるようにして亡くなった。
 創世記第18章に話しを戻すと、アブラハムとサライの間に翌年に子供が生まれることを預言した天使に、天幕の中にいたサライは心の中で冷笑した。100歳の夫と90歳の閉経した妻に、そのようなことがあろうはずもないと。しかし神がサライの懐疑に、神への不信を問い糺したことに、サライは恐怖を覚えた。『心の中すら神はお見通しなのだ』と。やがてアブラハムとサライの間に産まれた子供はイサクと名付けられた。イサクは「笑い」という意味である。サライの冷笑は、1年後には心からの笑いに変わったのである。
 

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