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「エペソ人への手紙」世俗と宗教の関係

 7/18の尾久キリスト教会。この日の高橋武夫先生の説教は、いつになく熱がこもっていた。題材はエペソ人への手紙第6章10〜20節。エペソ人への手紙は、思想犯として獄中にあったパウロが「福音は繋がれていない」と説いている。冒頭でいきなり奈良の興福寺脇にある猿沢池について語り始める。ここには「手を打たば 鳥は飛び立つ 鯉は寄る 女中茶を持つ 猿沢池」という一首がある。作者不詳のこの和歌は「一つのことにも様々な受け取り方がある」という意味を表す。ここを発端にして、フランスのギメ博物館の話に飛ぶ。ここには、フランスの実業家ギメが東洋美術に関心を持ち、奈良京都の仏閣を観て歩いた末に、興福寺の仏像26体が二束三文で買われていた。これは明治政府による廃仏毀釈の影響であったという。この時期の僧侶は還俗させられていたという。国家が信教に関与するということは、厳しい事態になるということである。それが例え擁護される側となったとしても、コンスタンチヌ帝による国教化でキリスト教も形骸化している。
 人間の罪は民族、国家レベルになると、理性を喪失した巨悪となる。日本国憲法において、政教分離は鉄則である。しかし世俗に無関心であって良いということにはならない。キリスト教徒の多い韓国の教会牧師と話した時に「政治には関わりを持たない」と言っていた方がいた。しかし信教の自由を確保することは、世俗と無関係ではない。使徒ヨハネはヘロデ王の不倫を糾弾した。日本にも、もりかけ、学術会議などのファッショ化が厳然と存在している。クリスチャンがピースメーカーであり、世の中の見張り役であるためには、そのような問題に無関心でいるわけにはいかない。カトリックも法皇の言うことは全て正しいとした誤謬を自ら正した。ホーリネス協会もまだまだ保守的である。女性の牧師こそ認めたが、黒人の牧師はまだいない。聖書主義は大事だが、聖書だって全てが正しいわけではない。外の動きを知ることによって自らを正す。これが最も大切なことである。
 

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