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偉くなりたいと思う者は仕える人となり、かしらになりたいと思う者はしもべとならねばならない

8/8の尾久キリスト協会の礼拝における高橋武夫先生の説教。この日の題材はマタイ伝20章20〜24節「わたしが飲もうとしている杯」。イエスがエルサレムに向かう途中で、イエスの叔母であるサロメが、母親として自らの二人の息子であるヤコブとヨハネを御国におけるイエスの両脇に就けるよう訴えた。この時にイエスが問うたのが「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるのか?」。この母親の訴えは、イエスの寵を競う弟子たちを大いに憤慨させた。弟子たちの関心は、弟子たちの中で誰が最も偉いかであったからだ。イエスは「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕(しもべ)とならねばならない」と諭した。
 杯という言葉は、新約聖書に100回以上出てくることば。杯の実態は磔刑に処されるイエスの未来を指すが、運命=命を運ぶ者は、自分か神かということを、母親に「わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」と教えた。イエスを三回裏切ったペテロは、死から復活したイエスの「私を愛するか?」という問いに人の愛を意味する「フィレオ」と答えた。イエスの言った愛は「アガペ」すなわち神の愛であった。信仰とは、まさに不信仰の告白である。自分が岡山県で牧師として奉仕していた頃、県出身の川柳大家がいたため、街おこしに川柳コンクールがあった。その中で今だに心に残っているのは「俺に似よ 俺に似るなの 親心」である。

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