遊女と神仙思想

以前、小学校で日本舞踊を教えていたんですよ。
今は指導をお弟子さんに譲って、しかもコロナで学校行事が軒並み無くなって、活動休止中ですけど…

それでですね、最初は短い簡単な曲ばかり教えてたんですが、みんな随分と上手になって来ましたので、ちょっとしっかりした古典を教えてあげようかなぁ、と思って、長唄の

「蓬莱」

ってのに取り組んでみたんですよ。
あんまり深くも考えずに…

「蓬莱」って踊りは、いわゆる「御祝儀舞」ってやつでしてね、曲も上品ですし、振り付けも素晴らしいもので、いわゆる以前にお話しました

「場を浄める踊り」

ってのの部類に入るものなんですけど…
困った事が起きましてね…

っていうのは、始めたは良いものの、この曲、内容は「吉原」について歌ってるんですよ…汗💦

つまり、吉原で男女がめでたくカップル成立しますとね、蓬莱島の作り物が乗った「島台」ってのが座敷に出て来ましてね、それで御祝儀っていうんでお祝いになるんですけど、この島台をモチーフにして歌詞が出来てるんですよね…

蓬莱島ってのは古代中国の伝説で、東の方の海に浮かぶ、不老不死の仙人が住む島で、そこには美しい天女がたくさん居ると…

つまり吉原は、まるで蓬莱みたいに天女と見まごう美しい女性がいっぱい居て…みたいな吉原のイメージアップのための宣伝か、ってような事を美辞麗句を駆使して歌ってる曲なんですよ…

それでね、小学生の中に、歌詞の意味とかに興味を持つ子とかも居ましてね…説明に困りました…ってか、説明出来ませんでした汗💦

それでですね、この時に、以前からずっと疑問に思ってた事が引っかかりましてね…ってのは

なんで日本舞踊の曲には吉原とかが多いの?
なんで吉原の事を歌った歌が御祝儀舞なの?
なんで吉原をそんなに理想化するの?
吉原って遊廓でしょ?

もう、ここら辺の事が気になって気になって仕方がなくなりましてね、ついに一念発起して徹底的に調べてみたんですよ。

そしたらね、なんか結構深い所まで行きついてしまって…

以下に述べますのは、その時に私が調べた事のレポートです。
まぁ学者さんじゃありませんので、間違いもあるかもしれませんが、よろしかったらお読みください。


目次
1.吉原のモデルとなった島原
2.そもそも遊女とは
3.男性原理と女性原理の戦い
4.客を選ぶ太夫
5.仙人は不老長寿を望むか


1.吉原のモデルとなった島原

なんで日本舞踊の曲には吉原の事について理想化した曲が多いんだろう…

これって昔から思ってたんですよ。不思議だなぁと。

でもまぁ、そもそも日本舞踊ってのの成立を考えますとね、今でも国の区分では「歌舞伎舞踊」ってジャンルしか正式には認められてなくて、それとは別に「上方舞」って区分があるらしいですが、「日本舞踊」って言葉は正式には国に認められてないらしいんですが、この二つの名称からも分かるように

・歌舞伎から発生した舞踊
・上方のお座敷から発生した舞踊

みたいになってまして、お座敷ってのは昔で言う「遊廓」の事ですから、それに歌舞伎関係者も遊廓出身の人がたくさん居て、どちらも繋がっていましたし、そんな関係から、彼等彼女等が吉原の事を悪く言うはずはない、ってのは分かるんですけどね…

でも、この理想化はそれだけじゃ理解出来ない…なんだか思想的なものまで感じるんですよ

それでですね
そもそも遊廓って何なんだ
って所から調べてみたんです。

そしたら、それには元々、吉原のモデルになった

「京都の島原」

っていう遊廓を調べてみなきゃ、全容は分からないなぁ…と。

吉原と島原は成立事情も歴史も違いますし、一緒に論じてはいけないんですけどね、でも、吉原が創建当時は島原をモデルにしていたのは確かな事実ですし、実は江戸の文人達がこぞって褒め称える吉原ってのは…

島原からの伝統を保っていた時代の吉原

な事が多いんです。ってのは、江戸には上方風の「廓文化」ってのは結局根付かず、

「太夫」

って制度も結構早い段階で消滅してしまいました。
これは、結局、京都と江戸の気風の違いなんて説明される事も多いですが、それでも江戸の人達が憧れたのは

「昔の吉原」

だった形跡があります。滅ぼしておいて惜しんだんですね…

じゃあその、江戸の人達が惜しんで憧れて理想化した「島原」ってのは、どんな所だったのかっていうと

「太夫が居た廓」

だったんです。

ここで間違えたらいけないのは、江戸にも立派な衣裳を身につけた豪華な

「花魁」

ってのが居たじゃないか、とか思うかもしれませんが、「太夫」と「花魁」は似て非なる…というか、実は全く違うものだって事です。

どう違うのかというと…

島原の遊女には、大きく分けて4つのランクがありました。

・太夫(たゆう)
・天神(てんじん)
・鹿恋(かこい)
・端(はし)

他にも時代によって様々な名称とかが出てきますが、大まかな所はこの4つです。

それで、この一番上の「太夫」ってのを説明しようとすると、とても一言では説明出来ないんですけど…とにかく廓の中心になる「特別な存在」でした。

というのは、この「太夫」というのは、子供の時に才能・天分を見抜かれ、超一流の人達から徹底的な英才教育を施され、純粋培養の清い体のまま「太夫の位」に着くという…

いわば廓中が寄ってかかって人工的に作り上げる

「神聖な存在」

で、勿論、無理矢理客を取らされるというような事は一切無く、気に入らない客は10回はおろか100回だろうが1000回だろうが断って良いという…「遊廓」という空間の中で、その存在意義に真っ向から逆行する不思議な存在でした。

もっともこれは、本当に初期の太夫の姿で、時代とともにシステムも随分と変化して、後には「太夫の位にまで上り詰めるには相当大変」みたいに、下から出世しなきゃならないようになってしまったりもしたみたいですが、本来の「太夫」というものは、出世してなれるようなものではありませんでした。

最初から選ばれた者だけがなれる特殊な存在だったんです。

太夫の下の「天神」という位も客を断る事が出来ました。
まぁ私の個人的な考えでは、ここら辺あたりまでがいわゆる「遊女」かなぁ…と

その下の「鹿恋」という身分ですが…ここからが、遊女というより「女郎」と呼んだ方が良いかと…「鹿恋(かこい)」ってのは、なんとなく字を綺麗な字にして誤魔化してますが、要は「囲い」で…

「囲われてて逃げられない者」

の事です。客が求めれば応じなくてはならず…まぁ女郎です。

最後の「端」というのは…「端女郎」とも言われまして…憐れで説明する気になれません。

こういった廓の中での上下関係があった中で…江戸の「花魁」ってのは…せいぜい「鹿恋」の身分なんですね。

先程もちらっとお話しましたように、江戸の吉原では「太夫」という制度が馴染まず…せっかく作っても「紺屋高尾」の高尾太夫のように、太夫としての役割を理解していない者も多く、早々に滅んでしまいました。

江戸では「天神」とは言わず「格子」と読んでいたのですが、こちらの方も御多分に漏れず、吉原ではさっさと消滅してしまいます…

江戸では「鹿恋」にあたる身分の遊女の事を…

「散茶(さんちゃ)」

と呼びました。「散茶」というお茶は急須に入れてから振らなくても飲めるのだそうで、つまり

「振らない」

望めば絶対に手に入る…つまり「女郎」なんですけど、この「散茶」が…
自分達より上の身分「太夫」とか「格子」が無くなっちゃったので…吉原での一番身分の高い女郎になりました。

その「散茶」の中の見栄えの良い女郎に、廓の主人達が値打ちをつけようと、豪華な衣裳を着せてみたり、頭も「太夫風」に結わせてみたり、「内八文字」に対抗して高下駄で「外八文字」を踏ませてみたりしたのが…

「花魁」

です。つまり「花魁」は女郎です。ですから助六の恋人、花魁の「揚巻」は

「間夫(マブ)が無けりゃ女郎は闇」

と啖呵を切るんですね。

今、私はなんとなく「遊女」と「女郎」という言葉を使い分けたんですけど、まぁ正確な意味合いはどうなのか良く分かりませんが、私の中では「遊女」というのは客を断れる存在として認識してます。

「遊女なのに客を断るの?」

と不思議に思う方もいらっしゃるかなぁと思いますので、ちょっとこの「遊女」ってのについて考えてみますね。


2.そもそも遊女とは


日本で一番古い歌集「万葉集」に

「遊行女婦(あそび・あそびめ・うかれめ)」

って呼ばれる人達の歌がたくさん出て来ます。
貴族とかの宴会とか催しの時に呼ばれて、酒間の取り持ちや芸などを披露したようです。
いわゆる今風に言うと

「お・も・て・な・し」

ってやつですね。
この女性達が記録に残る遊女の一番古いものなのかな…?

名前まで残っていて「土師」とか「蒲生」とか名乗ってます。
天平年間の記録なので、まだ平安京に移る前ですね。

この女性達が、客と枕を共にしたのかどうかは分からないのですが、時には同衾する事もあったようです。

なのですが、そんな事より、まずは彼女達の詠んだ歌を見てもらいたいです。

二上の
山に隠れる
ほととぎす
今も鳴かぬか
君に聞かせむ(遊行女婦土師)

雪の島
巌に植ゑたる
なでしこは
千代に咲かぬか
君がかざしに(遊行女婦蒲生)

当時、歌を歌うことが出来るのは知識人でした。
彼女達は当時の貴族達と交わり、素晴らしい歌の数々を残しています。

傀儡女(くぐつめ)という人達も居ました。

この傀儡女というのは、山中などで、どこからともなく現れて、美しい衣裳を着て、ものすごい美声で歌を歌う不思議な存在です。

その声はよほど特徴があったらしく、「更科日記」などにも

「声すべて似るものなく、空に澄みのぼりて…」

と、聞く人の魂を射抜く歌声を持っていた人々だったことが分かります。

後白河院という人は同時代の人から「黒白を弁ぜず」「比類少キ暗主」「愚物」とボロクソに言われた人ですが、この傀儡女の「乙前」というお婆さんを師匠として歌を習いました。

この傀儡女も、当時の人達から「遊女」と呼ばれました。

この頃にはもうすでに「歩き巫女」や「比丘尼」といった人達の活動も見受けられますが、彼女達も「遊女」と同一視されていました。

琵琶湖から続く淀川水系には遊女が定住する里の存在が確認されます。

大阪湾の河口近く、神崎・江口あたりには、そういった里がありました。

謡曲の「江口」、私達の日舞の世界では「時雨西行」などと呼ばれたりしますが、これは雨の夜に遊女の里「江口」に法師が立ち寄り、一夜の宿を借りようとしますが、ここは女一人の家だからと断られ、色々あって泊めてもらえる事になるのですが、その夜に遊女が普賢菩薩に変わるという…なんとも不思議な物語ですが、その話のロケーションが「江口」です。

面白いのは、江口の遊女は一度、法師の宿を断る事…遊女なのに断るんです。
そして二人の問答一切は「歌」で行われます。

「白拍子」というものも出て来ます。
これはいわば男装の麗人で、平安朝宝塚歌劇みたいなもので、舞を主にしましたが、彼女達も「遊女」と呼ばれています。

「白拍子」というのは、元々は寺社などの「延年」という行事で美少年によって演じられる舞の事で、いわば遊女の白拍子はそれを真似した芸能だと思われますが、「今様」という当時の流行歌とミックスして大人気になりました。

さて…

ざっと色々な「遊女」を見てみましたが…いかがですか?

これって…芸能人の事じゃないですか?

歌を詠む、舞を舞う、「歩き巫女」や「比丘尼」だって巫女舞や絵解き説法などをしていました。いわば流浪の芸能人の一種です。

彼女達の特徴は「自由に生きている」こと。
いうならば、恋愛に関しても自由で、封建的な「家」などという価値観と正反対に、自分達の力で生き、恋愛を楽しんでいるのです。

彼女達の残した歌…そこには切ない恋心が溢れています。
彼女達は「春をひさぐ」商売をしていたわけでは無さそうです。それならばこんな切ない歌は残しません。
彼女達は、あきらかに「恋」をしていた女性達だったのだと思うのです。

ところが…この「恋をする」という事が、実は当時の世の中の変化から見て、彼女達を特殊な人達にしてしまったのではないか…というのが私の考えです。

ちょっとここで、当時の日本の結婚制度みたいなものを見てみましょう。

3.男性原理と女性原理の戦い


江戸時代に出来た「遊廓」っていう場所は、「源氏物語」の世界を再現しようとしていたみたいな所がありまして…

つまり、男性の「妻問い婚」というか…

遊女の名前は源氏名と呼ばれて「源氏物語」の巻名から取られることが多かったですし…

それでですね、ちょっと「源氏物語」ってのについて考えてみますと、あれって優雅な感じで世界が描かれていますが、要は田舎の村とかの…

「夜這い」

ってのと、本質はそんなに変わらないというか…汗💦

それでですね、あの物語をよっく考えてみますとね、結構とんでもない話で…

つまり、あの話は主人公の光源氏を中心に描いていますから、ちょっと誤魔化されてよく分からなくなってるんですが、あの「妻問い」っていう男女関係の結び方って…考えようによっては絶対的に女性が強いんですよ。

つまり、あの物語の中の女性達は、みんな光源氏を愛していて、源氏の訪れを待ち焦がれてるから何の問題も無いんですが…
夜にこっそりと男性が忍び込んで来るんでしょ?
そしたら…女性の方だって、他の男性を受け入れる事もめっちゃ可能なわけで。

つまり光源氏一人だけがプレイボーイで、って事じゃなくて、女性側もいくらでもアバンチュール出来てしまう風習だったんですよ。
「源氏物語」の女性達はしないですけどね。

で、子供が出来たらどうするかっていうと…とりあえず実家で育てて、そのうちに自分が関係した男性達の中で、一番優秀で地位も高い人に子供を認知してもらったら…一家こぞってもう万々歳という…汗💦

…で、怖い事言いますけど、ああいう風習がずっと続いてたって事は…あの時代の子供ってのは、現実には誰の子か分かったもんじゃなかった、って事で。

それの実例が「源氏物語」の中でも出て来ますが、つまり、畏れ多い事に、源氏の子供が帝になってしまうという…
そしてその事に源氏が悩むという…

でも、あれだって紫式部が「源氏の子」って書いてあるから「源氏の子」になるけれども、本当に源氏の子かどうかなんて事は、DNA検査も無い当時じゃ誰も分からないという…あぁ怖わ!

つまりこれは、もう生物学的にどうしようもない事なんですけど、子供ってのは必ず母親のお腹から出て来ますから、女性からしたら、自分の子供は絶対に自分の子供なんですけど…男性はそこが絶対というわけにはいかないんですね。

だから男性は、女性よりもパートナーの浮気に関してはキツイです。
どうしても一抹の不安ってのはあるもんなんですよ。
自分の子供だと思って育てて来たのに、段々と成長するに従って隣のオッサンに似て来た…なんての、冗談や笑い話では済まされません。

で、これも本能的な事なんですけど、男性は自分の遺伝子を確実に次世代に残したいと思いますから…段々と「家」という制度を作り上げて行くんですね。
つまり、嫁を縛り付け始めるんです。

こういう変化が表面に現れ出したのが、ちょうど平安時代くらいからで…貴族の世界でも、それまで「藤原の○○」とか「源の△△」とか、朝廷から下された「氏(うじ)」ってのだけで通用してたのが、邸宅のある通りの名前を「家名」みたいに使用し出して…「一条○○」とか「堀河△△」とかって名乗り始めます。

男性原理の強い武家なんかは、この傾向が強くて、自分の「領地」とか「苗田」とかを「苗字」として名乗って、「畠山□□」とか「北条●●」とか言い始め、しかも女性を「妻」というよりは「嫁」として自宅の中に囲ってしまうという…そういう変化が起き始めました。

一方、比較的田舎の村なんてのは、こういう変化が遅くて、律令制度が整備された時なんかは戸籍とかも作って一軒一軒の家づつ把握しようとしたんですけど、当時の村は乱婚状態に近くて、戸籍を作ってみても、子供の親が去年の親と違ったり、夫婦の名前が毎年めちゃくちゃに記載されて提出されたりで…

つまりこれって現代から考えると嘘みたいな話ですけど、戦後昭和の時代に「集団就職」ってのがあって、みんな田舎を離れて都会に就職しに行って、「村」っていう組織がバラバラにされてしまうんですけど、それまでって結構、先程もチラッと書いた「夜這い」ってのが許されていた村が多くて…

しかも、これは昔の話ですが、大昔は「歌垣」とか「七夕」とかって、一年に一度の性的解放日みたいな風習を残していた村も結構あって…そうなると、10ヶ月後に産まれて来る赤ちゃんの父親なんか誰か分かったもんじゃなく、もう「村」が集団で子育てをしていたというか…

政府の方も、地方がこんな状態だから把握のしようが無くて、例えば納税(年貢米とか)でも、個人個人にというよりは「村単位」で一括して充てがって、とりあえず計算通りの年貢米が徴収出来ればそれで良いみたいな所もあったのですよ。

なんですが、やっぱりこんな状態の田舎の村でも、庄屋とか地位も安定して裕福になって行くと、自分の子孫を確実に残したいっていう願望が出て…「家の嫁」制度を取り入れて行きます。

で、こうなると、女性の側には「貞操観念」ってのを強要するようになりますし、それが出来ない女性は「不貞な女」の烙印を押されて、当時の集団生活の基盤である村から「村八分」っていう制裁を受けたりして、住めなくなってしまったり…

さぁ、世の中がこういう変化を遂げて来てる時代に…

遊女のような自由恋愛主義の存在はどう映るか、という事ですよね。

つまりこれって、男性原理主義と女性原理主義のぶつかり合いなんですよ。
ずっとこの二つの原理主義は戦って来たんです。

男性原理主義に従って、それを「秩序ある行動、生活」として考える人達は、自分の娘の結婚なども「家と家同士の話し合いで決めて、両家が栄えて行く事が慶事」と考えましたから、その規範から外れる行動を取る者達を憎みました。

一方で、遊女達というのは…

自由恋愛してただけの事なんですよ…
そんな事言ったら、現代なんて国民総遊女時代といっても過言じゃない時代で…汗💦

ところが、現代の自由恋愛主義者達(自覚とか全然無いと思うけど…)は、コミュニティーとしての受け皿が無いんですよね…だから疲弊して行くんですけど…

遊女達は、自分達でコミュニティーを作ってたんですよ。
それが、江口とか神崎とかの「遊女の里」だったんです。

彼女達は、男性原理を拒否して、女性だけで運営出来る世界を作っていました。
子供は里の遊女全員で育てる…田舎の村と同じやり方です。
生活のためには一芸を身に付ける。
男に養ってもらおうという気持ちなんか無かったんだと思います。
女性だけで自立してやって行ける世界。
女性原理の母系性社会です。

この伝統は、実は現在も一部の場所で残っています。
それが花街です。
彼女達は出身はそれぞれ違いますが、「お母さん」「お姉ちゃん」「妹」という疑似家族を作り、女性だけの自立した世界を作り上げています。

そして、やはり彼女達の仕事は、宴会のサポートと芸能です。
また、花街は、とても大切な仕来たりを残しています。
それが…「一見さんお断り」です。

4.客を選ぶ太夫


花街の「一見さんお断り」っていう仕来たりは、実はとても大きな事を私達に教えてくれます。

つまり、これが…

「太夫は客を選ぶ」

という事の名残りなんです。
ここが非常に重要なんです。

一般的には…

「女だけの世界どすさかい、知らんお人に入り込まれても困りますし、お人柄も知らんかったら、どないなサービスさしてもろたらええのんかも分かりまへんし…」

みたいに説明されてますが、これ勝手に私が言ったらあかんのかもしれませんが、本音は…

「しょうもない男はいらん」

って事なんだと思うんです…汗💦

話を強引に「太夫」に戻しますと、「太夫」は何度でも客を断る事が出来ます。

小野小町は百夜通いで有名ですが、九十九日目に深草少将が亡くなった事で、「情の無い女や」と悪く言われましたが…
太夫は百夜通っても二百夜通っても、「この男じゃない」と思ったら断り続けられます。

これが許されるのは、街ぐるみ、総出でこの仕来たりを護ってるからです。

護り通す意義があるからこそ、島原はこれを護り通して来たんだと思われます。

ここで重要なのは、例えば…

太夫が選ぶ男というのは、経済レベルではかれるものではない

…という事ですかね…
これは、現代の花街でも大切な事とされています。崩れている場合もありますが…

「金ならいくらでもあるんだ」

こういう態度は、廓ではタブーです。
実は一番嫌がられます。

だからといって、貧乏人でも良いのかというと、そうではありません。
つまり、経済的には裕福であって当たり前なのです。それは前提条件として当然クリアしておくべきもので、ことさらそれを表面に出すような人間性の人は、太夫は相手にしないという事です。

地位があってもダメです。

これも、本来的には廓という所は、世間の人間関係を持ち込む場所ではありませんから、裸の心を見られます。
いわば太夫の居る座敷という空間は、世間とは隔絶された場所なのです。

こんな所で、「オレは大名だから」とか、「貴族だから」とか主張しても、受け取ってくれません。

太夫が金や地位に靡かないという事は…
これを護り通す廓の人々は大変だったと思います。
時には命懸けの場合もあったでしょう。
そうやって護って来た仕来たりなのです。

遊廓というと、どうしても映画やテレビ、小説などの影響で、例えば野心のある男や、自己顕示欲の強い男が、獲物でも獲得するように大金をはたいて遊女をモノにする、或いは一目惚れした男が必死に働いて、その姿に遊女が情を感じて関係を持つ…みたいなのが多くて、勘違いしてしまうのだと思いますが、そういう庶民感覚で遊廓を捉えると大間違いをしてしまいます。

映画監督や小説家では手が届かないのですよ…勿論私にも手が届きません。もっとも私は手を届かせたいとも思っていませんが…そんな世界の話なのです。

太夫には、会うだけでも様々な通過儀礼みたいな仕来たりがあります。
その度に大金がどんどん出て行きます。
太夫一人ではなく、周りの人々への祝儀や心付けが山ほどかかります。

なんとか会える所まで漕ぎ着けても、太夫は道中を八文字でゆっくり来ますから、イヤというほど待たされます。

そこまでしても、座敷にいるのはホンの数分で、こちらに愛想してくれるわけでもなく、すぐに立って帰ってしまいます。

たったそれだけの事に、家が傾くくらいのお金が必要になって来ます。

しかも…会えても同衾は出来ないのです。
太夫が首を縦に振らない限りはいつまで経っても…

こんな事に時間と費用を費やす必要性をあなたは感じますか?

ハッキリ言いますが、太夫と付き合おうなんてのは、一時の性的衝動だけで気持ちが続くものではなく、ましてや普通に日常生活で女性にモテない男が金で女を靡かせる所でもなく、いわば太夫なんてのを相手にしなくても充分自分が充実していて、人間的にも考え方を始めとして成熟し、余裕のある男じゃないと出来ない事なんです。

また、そういった男性でないと、太夫は何度会ってもニコリともしてくれないんです。

そして…これも大切な事ですが、金を見せびらかすのがタブーというのと同じで、そこまで時間と金を使っても…それで自分が自己満足したり自己顕示欲を持ったりしたら、その時点で全てが白紙になります。

オレはやるべき事を全てやり遂げた。すごいだろう。

みたいに思っちゃいけないって事です。
その時点であなたは色んな資格を失います。

…こんな精神的に難しい事、出来ますか?
私には無理ですね…笑

太夫の前では、心が裸にならないといけないんです。
そしてその裸の心がキラキラと、真っ直ぐ清く輝いてないといけないんです。
そういう男性に来てもらうために、太夫はじっと待っているんです。

この不思議なシステム…
これは一体何なんだ?
なんか知らんけど、大層やって事は分かった。
でも、なんのためにこんなシステムを作って命懸けで維持して来たんだ?

その答えは、蓬莱の島台にあるのではないかと私は思うのです。

5.仙人は不老長寿を望むか

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