芸能の価値〜コロナ禍の中で知ってもらいたい事〜
コロナ禍という降って湧いたような状況の中で、我々芸能関係者は突然、不必要な存在のように言われ、職も奪われ、自分のやって来た事に自信を無くしてしまった人も多いことと思います。
そういう人に読んで欲しい。
今、こんな状況だからこそ、我々の存在意義はどこにあるのか、失われた自信を取り戻すための一助になりたいと書いた文章です。
1.「たかが娯楽」
新型コロナウィルス感染拡大防止のため…もう耳にタコが出来るくらい何度も聞かされたこの言葉のために、現在もたくさんのイベントが中止または延期されています。
人が集まれば感染する。
とても良く分かります。この事実には抗うことが出来ません。
多くの良識ある芸能関係者が自分達の活動を自粛しました。
有名人から無名の人々まで、その数は相当なものになると思います。
その一方で、「いいやオレ達は活動を続けるんだ!」と無観客配信や客席数を制限してイベントを続行した人達もいます。
続行というよりは強行だったでしょう。
主催者の悩みは相当なものだったと思います。
YouTubeチャンネルは雨後の筍のようにあちらこちらに増え続け、猫も杓子もにわかYouTuberになりましたが、そのほとんどは採算が合うまでには至っていません。
どういった方向性を選んだにせよ、それぞれの芸能者達の決断は大変なものだったと思います。
価値観というものは千差万別ですから、どの判断が正しいのかなどといった事は私には言えません。
ですが、私個人においては、コロナ禍だからといって一度も自粛という事はした事がありません。
一度だけ、参加予定だったイベントの参加中止を決断したことがありますが、それは中止せざるを得ない状況に追い込まれたのでやむなく断念しただけです。
なぜ私は自粛をしないのか。
聞く人によっては、とてつもなく我儘で、後先の考えもない迷惑なヤツだと思われると覚悟はしています。
実際、色々なSNS等では…
「命より大事なイベントなんてあるの?」
「バカどもが集まって感染拡大に協力しとる」
「たかが娯楽は我慢しろよ…時と場合によるだろ」
等々…イベント強行に対する世間の反応は相当キツイものがあります。
「たかが娯楽は我慢しろよ…」
芸能というものは、本当に「たかが娯楽」なのでしょうか…
芸能者にとっては娯楽ではありません。まぁ娯楽の人も居ますが、真剣に「これ一筋!」でやってる人にとっては芸能こそが仕事であり生活です。
ですが、今回はそういった芸能者の個人的な事情は考えから省きましょう。
観客にとって…芸能とはやはり「たかが娯楽」なのでしょうか。
「たかが娯楽」というのは…例えば料理の最中にキッチンにお気に入りの音楽を流す、試験勉強の合間に好きなバンドのPVを気分転換に観る…こういうのは確かに「たかが娯楽」かもしれません。
ですが、何ヶ月も前からチケットを買って、その日のために洋服を選んで、メイクもバッチリして観に行くコンサートは「たかが娯楽」ですか?
地下アイドルのコンサートで、サイリウムというのを使って素晴らしい光の共演を演じる「オタ芸」というもの…
あれは、練習にも相当の時間をかけているのが一目で分かりますし、彼等の真剣な眼差しは、決して「たかが娯楽」などという言葉では片付けられません。
最初に見た時は「おいおい、歌聴けよ…」と思いましたが…
観客が一斉に頭を上下に振る「ヘドバン」というもの…あれも確かに大人から見たら異様な光景かもしれませんが、あそこまで観客を興奮させる演者というのは、まさしくスターと言っても良いものだと思います。
それを「たかが娯楽」と言い切ってしまって良いのか…私はその観客の興奮の中に、古代から続く芸能の本質を解く鍵があるのではないかと思っているんですよ。
ではその芸能の本質とはどんなものなのか…
それを今から考えてみたいと思います。
2. 「場」と「空気」
音楽にせよ演劇にせよダンスにせよ、演じる「場」ってのが必要になりますよね。
別に豪華な劇場を用意しろと言ってるわけではなく、広場の一角でも良いんですよ。
とにかく「場」を作って人(観客)を集める。
大道芸人、今はストリートパフォーマーって言うんですか?そういう人達がよく辻に立ってギターを抱えて演奏してたりしますが、誰も観客が居ない時は淋しいですね…
ところが、一人でも通行人が立ち止まって聴き始めると途端にそこに「場」が現れます。
曲の終わりに拍手なんかもらうと、もう演者の歌声から変わって来たりします。
これって、演者と観客が一体になって、周囲とは別の「世界」を作り出してるんですよね。
観客が二人、三人と増えて行くと「世界」も広がって行く。
これが芸能における「場」ってやつです。
オーケストラの編成で、青空の下でクラシックの演奏をすることなんかもありますけど、あれも観客が居なければ、ただの場所を外に変えただけの練習になってしまいますが、観客が現れたら一気にそこが自然のコンサートホールに早替わりします。
歌舞伎の創始者と言われている出雲阿国一座なんてのも、もともとは京都の鴨川の河原で演じてたんですよ。
それが人気が出て小屋掛けになって、常設劇場になって…今の京都南座になるんですけど、ようは天気に左右されずにいつでも観たいっていう観客が居たからこそ、こうなったんですね。
客席との一体感…演者と観客が一つの「世界」を共有する…これが重要なんです。
映像で演劇を表現する…日本では昔は「活動写真」なんて呼ばれたりしましたが、ようは映画の事なんですけど、この興行はフィルムさえコピーすれば全国津々浦々どこでも、果ては世界中どこででも観れるというスグレ物でしたから一気に流行しましたが、この「映画」というものが芸能に与えた影響は大きかったと思います。
なにせ演者本人がその場に居ないんですから、「世界の共有」もへったくれもあったものじゃありません。
それでも観客は日常とは違う「特別な空間」を求めて「映画館」に通いましたし、映画館に行く日はオシャレして、帰りにはカフェでお茶でも飲んで…と、その日一日は特別な日にしたりしてました。
テレビからレンタルビデオ、DVD、スマホと、芸能を提供する媒体は時代によって変化はしていますが、それでも自分の好きな動画を観る時はイヤホンをして、外界をシャットアウトする、みたいな人も多いと思います。
ようはそれが現代風の「場」なんでしょうね。
そして、芸能者っていう人達は、この「場」の「空気」を操る事が出来る人達の事を言うんだと私は思ってるんですよ。
「K.Y」っていったら「空気読めない人」っていう言いまわしが一時流行りましたが、「場の空気」ってやっぱり存在するんですよね。
それで、その「場の空気」を操るって、具体的にどういう事かと言いますとね、例えば…
オシャレなカフェにいきなりBGMでチャンチャカと祭囃子が流れて来た…
葬式の最中に宣伝カーが「バーニ○、バ○ラ高収入〜」と通り過ぎて行った…
こういう状況って、あきらかにその「場の空気」が変わるでしょ?
人間ってね、結構「音」とか「音楽」とかに気分まで影響されやすくって、悲しい音を聞かされ続けると悲しくなって来るし、勇ましい音を聴かせ続けられると戦闘的になったりするもんなんです。
「音」っていうのは突き詰めれば「空気の振動」ですから…踊りにおける「動き」なんかも、自分の体だけじゃなく、周りの「空気」も一緒に動かしますから…
こういうのを、音楽関係の人なら自分の演奏する楽器や歌声で、役者ならセリフの声や身体表現で、ダンサーなら体全体とリズムとかを使って意識的に動かすんですよ。
自分発信で会場全体の「空気の振動の幅」を変えるんです。
そして、その「変化した空気」を観客に届けて、観客の心情まで変化させてしまうんです。
これが「空気を操る」って事です。
この「空気」を操るって事について、芸能にとっては大切なことですので、もうちょっと深く掘り下げてみたいと思います。
3.憑く芸能
急に私事になりますが、私は日本舞踊家という…皆さんにとって多分あまり馴染みのない職業をしておりますのですが、こちらの世界では「空気感」というものを大切にします。
踊っている最中に、小器用に上手な事をやったりすると「それは空気感が悪いからやめなさい」みたいな注意をお師匠さんから受けたりしました。
私のお師匠さんは舞台に出る瞬間の「出の空気」というものを非常に大切にしてらして、後で御自分のビデオなんかを観られる時に呼び出されて、「あんたにはこの空気がまだ無いねん。精進しなさい」みたいな事をよく言われました。
その「空気感」ってのはどうやって出すのかというと…それは口では言い表せないような要素がたくさん絡んで来ますので、ここでは説明出来ないんですが、お師匠さんが舞台に出られた時は、確かに演目によって、会場全体の空気がパッと明るくなったり、ドーンと重くなったりしたのは覚えています。
一流の芸能者ってのは、こういう風にして観客を惹き付けたり感動させたりします。
昔、地歌の第一人者といわれる女性の歌を身近で聴かせてもらう機会がありましたが、その人の第一声で、会場全体がフワッと花が咲いたように明るくなり、暖かくなり、いい匂いがして魂を奪われました。
誇張ではありません。実体験です。
観客ってのはね、実はこういうのを味わいに来てるんですよね。
細かいテクニックが上手いとかどうとかって関係ないんですよ。発表会とかコンクールじゃないんですから。
たまに、君は審査員か、っていうお客さんも居ますけどね…
それでね、逆に言うと芸能者ってのは、こういうのをちゃんとお客様に味わわせてあげないといけないなぁ…と思うんです。
それが出来たら、審査員みたいなお客もファンになってくれるんじゃないかなぁ…たぶん。
私事ついでに言いますとね、昔…どれくらい昔だろ、ちょっと覚えてないんですけど、夢を見ましてね。
それが、青白い渦巻きが私の体を突き抜ける夢で…それが夢とはいえものすごい衝撃で、ビックリして目が覚めたんですけど、しばらくショックで口もきけなければ体も動かせないみたいな感じで怖かったんですけど、それ以来、不思議なくらいに「踊りが上手になること」への欲が無くなってしまって…なんだかそんな事がとても小さい事のように思えて…
なんて事を書くと、非常に生意気なヤツだと思われるかもしれませんが…そうではなくて、
「世の中には私なんかより踊りの上手な人はいっぱい居るし…そういうのを追い求めてもキリが無いし…そういうのは、そういうのの好きな人に頑張ってもらって、私は目の前の人とかを大切にしよう」
みたいな事なんですけど、そんな考えに変わったら、不思議と見えてくるものも変わって来て…その頃から、この「空気感」ってのがちょっとだけ分かるようになったというか…
それでですね、まぁこの渦巻き体験があまりにもショックだったので、気になって色々と調べてみたんですね。
そしたら…インドのヨガになんかそんな事が書いてあって…それ以来、なんとなく「神様」みたいなのを意識するようになったんですよ。
といっても別に私は宗教者でもないし、流行りのスピリチュアルとかにも全く興味がないので、別にそんな話をしようと思うんじゃないんですけど…
「神様」って何やねん、って聞かれても分からないんですけどね、なんとなく…大自然の雄大な力の象徴とでも言いますか…
それでね、そういうのって、実は大切なんじゃないかと思うんですよ。
何が大切かっていうと、人間万能主義ってのはちょっと厚かましいな…と…
大自然の中には人間なんかじゃどうしようもない大きな力があるから、それに対しては恐れ畏むくらいの方がいいんじゃないかと。
そういうものの存在を否定してしまうと、ストップがきかなくなるんですよね…小型ブラックホールを人工的に作ろうとしてみたり、クローンとか作ってみたり…なんか私はそういうの怖いと思う人なんですよ。それの研究でご飯食べてる人には悪いけど。
話がどんどん逸れてますけど、実はこういった「大自然への恐れ」「天地との共存」「神への敬虔さ」っていうのは、日本の伝統芸能の中では重要な柱でしてね。
そもそも日本の芸能の祖っていわれてる天鈿女命(あめのうずめのみこと)ってのが御巫(みかんなぎ)っていう、神楽(かぐら)で「神おろし」とかをする猿女(さるめ)っていうのの祖先神ってことになってますし、演劇のハシリといわれてる「お能」ってのがそもそも神楽の「能舞」からきてるみたいだし。
それで「古神道」ってのがもともと「大自然への畏敬」から始まってますしね。
漫画家手塚治虫氏の名作「火の鳥」の「黎明編」ってやつに、この天鈿女命がウズメって名前で出てきますよ。
手塚氏独自の解釈ですけど、とても面白く読ませていただきました。
あのラストシーンで笑いながら去って行く女の人が、芸能の祖、天鈿女命です。
それでね、こういう神楽とかの流れを引いた日本の芸能ってのはどういうものかっていうと…
「何者かに憑依される事によって生み出される異空間」
ってのを意識的に作り出しているんだろうと思うんです。
「お能」とか「狂言」とかっていうのはもともとは「猿楽」って言ったんですけどね、お能なんかはあきらかに仮面劇で、しかも主人公は幽霊だったりするわけで、あくまで憑依されたような感じで役者は演じるんでしょう。
狂言は滑稽芝居ですけど、この「役」ってのが、結局は「自分以外の何者か」になりきる、つまり憑依されるって事なんだと思うんです。
伝統芸能の世界ってのは家柄みたいなのがあって代々引き継がれますが、体質とか才能とかは遺伝しない場合もありますから…時代を経るに従って「形だけ」が残ってるみたいな事もあるのかもしれませんが、一代限りのロックスターなんかが…
「何かに取り憑かれたように演奏してる」
みたいな状況って、お目にした事もあるんじゃないですか?
こういうのがいわゆる「憑依体質の人」ってやつで、もともとの芸能者はこういう系の人が多かったんだと思うんです。
話があっちこっち行きますが、この「憑依体質の人」ってのの元みたいなのが、先ほどもお話しました「神楽」の「御巫」だったり「雅楽」の演奏者だったり「舞楽」の舞人だったりしたんじゃないかと思うんです。
御神楽ってのは構成があって、「浄め」「神おろし」「神あそび」「神おくり」っていう順番に色々な神楽が演じられるんですけど、この中の「神おろし」ってのがつまり神様に憑依される事なんですね。
それで、やっぱり神様に地上に降りて来てもらうためには、その場を「お浄め」しとかなきゃならない…恋人が部屋に遊びに来る前に掃除しとくみたいなものですけど、そういう時に大切なのが「空気」なんですよ。
つまり、まず芸能の「場」を作って、その場の「空気」を浄め、それから巫女が神様を依代(よりしろ)に憑依させる。
その後、神様へのおもてなしで様々な芸能を演じて楽しんでもらってお帰りいただく、という寸法になってるわけです。
巫女は本来、自分が依代になって神憑(かみがか)りになるはずなんでしょうけど、これも体質とか才能が限られるから、結局何かの依代に代わりに降りて来てもらう、みたいな事になってるんだと思います。たぶん。知らんけど。
演者も本当は神憑りになって、神楽全体で、世間とは全く違う異空間をその場に作り出す。ってのがもともとの形だったんだろうと思うんですけど、間違ってるかもしれません。ごめんなさい。
それで…この神憑りみたいな話はもういいとして、この「場の空気を浄める」…これが最初の「空気を操る」って話に繋がると思うんですよ。
ですから、この「浄め」ってのについてちょっとお話してみようと思います。
4.「ケガレ」と「ハレ」
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