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桜並木が繋ぐ想い

昨日、誕生日を迎えた。毎年、Facebookのメッセンジャーで誕生日祝いスタンプを送ってくれる人がいる。その人はもうこの世にいない。もう、4年前に癌で亡くなってしまった。それでもこうやって毎年、誕生日にはスタンプが送られてきてあぁ、その人よりもどんどん歳上になっていくと痛感するんだ。そして、ありきたりだがその人の分も懸命に生きなければと思うのだ。

その人は高校の2つ上の先輩。部活も違えば関わりもなく、直接会って話をしたことがない。メッセンジャーを通してやり取りをしたことがある程度。きっと、その人が癌にならなければやり取りすらなかっただろうな。

私とその人との繋がりは前に付き合っていた人から言われた話が始まり。彼(私の2つ上)の中学時代の友人から何年かぶりに急に連絡が来たという。高校の友人が癌になり、治療費に莫大なお金がかかるため寄付を募っている、それに協力してくれないかというものだった。それを聞いて最初はそっか、大変なんだねーぐらいのものだったがよくよく話を聞くと彼の友人が私と同じ高校の先輩で驚いた。

そして、寄付集めをしているメンバーの中に同じ部活でお世話になった先輩の名前もあり。現金な話だが急に他人事ではなく感じた。それと同時に友人のために寄付を募り、口座を開設して色んな人に寄付を呼び掛ける。治療に頑張る友のために力になりたい、応援したい、そんな気持ちがあるのは友人として当然だがそうやって行動に移すということは並大抵のことではない。そういうことができる先輩達を誇りに思ったし、同じ学舎にいれたことを嬉しく思った。私と彼はそれぞれ微々たるお金ではあるが寄付をした。

Facebookに未来寄金と名付けられた応援ページでは治療中の先輩の闘病生活が赤裸々に載せられ、逐一先輩の様子が知れた。その人はどこまでも前向きで、真っ直ぐに自分の気持ちを表現していて、本当に生きたいと貪欲に思う様はとてもかっこよかったし、応援しているはずの自分が逆に応援されているような力をいつもくれていた。自分に合う治療法を探し、時には医者と喧嘩をし、延命のための治療法を拒否して新しい薬にも挑戦していたが、最終的には誰かのためになることとして治験協力して息を引き取った。最期の最期までどこまでもかっこよかった。

その先輩は吹奏楽部でうちの高校は吹奏楽の強豪校だったのだが、先輩の闘病を応援するために吹奏楽部のOBOGが集まり、コンサートを開催することになった。1人のためにするコンサート。これまた、それをする仲間の素晴らしさもあるがそういう風に応援してあげたいと想わせる先輩の人柄が何よりも素晴らしいんだ。私も友達と見に行ったのだが駐車場に車が停められず、もたついて会場に入ったら満席立ち見状態の人の多さに圧倒される。この会場にいる大勢の人全員、たった一人の先輩のために来ていると思ったら涙が止まらなかった。体力的に演奏できるのが2曲だけだったが、とても素晴らしかったし最後に聞いた先輩の挨拶では自分はとても弱い人間で癌が怖いが生きたいと、語っていた先輩はやっぱりかっこよかった。そのコンサートは新聞やテレビでも取り上げられた。

生前、メッセンジャーで直接本人からお礼の連絡が来た。寄金に協力してくれた人全員にメールをしていたようだが、それが1番最初のやり取り。治療で大変な中、とても丁寧な文章で一人一人のことを想って綴ってくれたというのが感じ取れる心暖まる文章だった。治療に必要な金額のほんのわずかな金額しか出していないのにわざわざ申し訳ないのと、人のためになることが少しでもできたという自信を持たせてくれる連絡だった。

Facebookで母校の高校に咲く桜を見に行ったがまだ咲いていなくて残念と投稿していたのを見て、当時実家暮らしで通勤途中に母校があったので、桜が咲いた写真を先輩に送った。来年見に行くとそこには綴ってあり、そういう目標みたいなものを奪ってしまうのではないかと心配したが、その人はとても喜んでくれてほっと安心した。勇気を出して送ってよかった。そして、その来年見る予定だった予定は果たされることはなく、先輩はこの世を去ってしまった。

結局、先輩とは実際に会うことができず話すこともできなかったが色々な人との繋がりで、私たちは出会うことができた。人との繋がりに心から感謝している。先輩の生きたいという想いは先輩の家族が繋いでいて、Facebookの友達に誕生日のメッセージをくれているんだと思う。忘れないでおきたい。先輩の想い、生きるということがどんなに大変なことかということ、生きることが大事だということを。私も先輩のように人から愛され、誰かの役に立てるような人になりたい。

先輩が生きたかったこの世界を私は今日も生きていく。貪欲にひた向きに懸命に。命あるかぎり。

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