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かなしみの音色

ある秋雨の日、十七歳のわたしは音楽室でピアノを弾いていた。ドビュッシーの『夢』だ。窓に流れる何本もの雨の道を見ていたら、なぜだか指が思い出してしまったのだ。

重いドアが荒々しく開かれる音におどろいて、演奏を止める。

「ミワコちゃん、たいへん、どうしよう」

倒れるような勢いで部屋に入ってきたヒマリの声は、声量こそ小さいけれど、鋭い痛みに満ちていた。

「クルミちゃんが、死んじゃった」

わたしの頭のなかではまだ『夢』が流れていて、その言葉をしっかりと受け止めるまで、粉の舞う黒板をぼうっと眺めていた。

ヒマリはわたしのセーラー服の両腕をぎゅっと握りしめて、揺さぶりながら続けた。

「いま、クラスのLINEグループに連絡があって、交通事故だって、でももしかしたら」
「ヒマリ、落ち着こう」

わたしは頼りないヒマリの面倒を見る、お姉さんのような立場だった。
だから、その瞬間も、堂々とした面持ちでヒマリの肩をなでたはずだ。

けれど、わたしの目からは涙があふれていた。
不思議な気分だった。どんどんと脳内の『夢』が形を崩して、熱くたぎっていく。
体中がしびれ、胸にはいくつもの穴が空き、そこから血や空気が抜けていくようだ。

クルミは、わたしの幼馴染だった。

―翌日―

通夜に参列するのは初めてだった。真っ黒なセーラー服を着たクラスメイトたちが、整然と座っている。その前列に、やはり真っ黒な家族の背中があった。わたしたちに向き合った写真のなかのクルミは、ほがらかに丸い頬を染めて笑っている。中学生のころの、おそらく修学旅行の写真だ。周囲が切り取られて青い背景と合成されていたが、おそらく隣に写っているのは、わたしだった。

ただ座って、その笑顔に見守られながら、儀式的な言葉や行為が流れていくのを眺めている。この空間には、青紫の靄のようなものがただよっている。わたしたちの肺にそれが入ると、全身に鈍い痛みを伴う。

それで、みんな泣き出す。しく、しく、と、そこかしこから静かなこもった音が聞こえる。その音は感染していく。わたしは、自分の胸の扉をパカッと開けて、痛んでいる部分を抉り出し、クルミに見せたい欲求に襲われる。でも、そんなことできない。みんなと同じように、泣く。

喪主のあいさつには、クルミへのやさしい愛情が感じられた。けれど、喪主は泣いていない。ただ、がらんどうになった瞳が、式場のわたしたちのさらに奥のほうの、壁に向けられている。

帰路につくとき、まぶたが腫れて別人のような顔のヒマリが声をかけてきた。

「ミワコちゃん、ミワコちゃん……クルミちゃん、怒ってないかな……」

わたしはその言葉に、茫然とした。

クルミが怒っているわけないじゃない。だって、死んじゃったんだもん。怒っていないし、悲しんでもいないし、わたしたちのこと覚えてもいないし、存在もしていないんだよ。

わたしの顔中の筋肉が暴れだし、嗚咽が腹から吐しゃ物のようにあふれて、膝ががくがくと震える。崩れ落ちて、床が眼前に迫った。

「え、ミワコちゃん?!ごめん、ごめんっ……」

その日、わたしは気が狂ったように泣きわめき続け、同じく参列していた母に抱えられ、なんとか帰ったそうだ。

―2年後―

「ずいぶん、うなされてたじゃん。ミワコもハーブティー飲む?」

シングルベッドから重い体を起こすと、真新しい白いカーテンの隙間から、春の陽光が感じられた。そっと指をかけ、夢のように美しい日曜の午前を全身に浴びる。

「うん、もらう」

答えて、台所に立つ大きな背中を見つめる。オフホワイトのTシャツにグレーのくたっとしたパジャマを着た猫背の彼は、あくびをしながら湯を沸かしている。わたしの嫌いな黒色を一切まとわない男だから、惹かれたんだと思う。

清潔感のある小さな部屋に草花の生きた香りが咲いて、透明なカップのなかの淡い黄色が湯気を立てる。ベッドで飲みやすいよう丸いウッドトレーにそれを置き、彼はわたしの隣に深く腰かけた。

「友だちの夢を見たんだ」

ふう、とティーの熱を吹き、わたしはぽつりと話した。彼はうなずくだけで、詮索はしない。だから、わたしは次の言葉を、ずいぶん時間をかけて紡いだ。

「幼馴染だった。仲がよかった。けれど、高校では彼女と距離を置くようになった。彼女がいじめられているから、見て見ぬふりを、したんだと思う」

成績の良い子だけが行ける女子高だった。クルミはわたしと同じ学校に行きたくてがんばって受験勉強をしたんだと、誇らしげに合格を報せてきた。わたしは、彼女と手を叩いて大喜びしたくせに。

目の端ではとらえていた。彼女が無視され、陰でくさいと言われ、ときどきトイレに連れていかれるのを。でも、わたしは新しく生まれた交友関係を理由に、彼女に触れなかった。

「交通事故に遭って、彼女は死んじゃった。赤信号なのに走って出たって」

大型のトラックの前に躍り出る、秋雨に濡れた真っ黒なセーラー服を着たあの子。どんなふうに飛んで、どんなふうに砕けたのだろう。わたしは赤信号で止まるたびにその様子を思い起こし、眠れない夜を過ごした。

自分の手をあたためている透明なカップが、かちかちと震えている。彼が肩を抱いてくれて、わたしは泣いているんだと気がついた。

「自分が悪いと思ってるの?」

彼の問いは、わたしの心のなかの、ぶよぶよと形を変えてうごめいているものに触れてくる。

「うん。もしかしたら、わたしがクルミを殺したのかもしれない」

彼がそっとカップをわたしの手から取って、かわりに体を包み込んでくれた。このあたたかさすら、いつか雷のような罰によって奪われる気がしてならない。そうやって恐れる瞬間、式場のヒマリの滑稽さと自分が重なり、自分を許せなくなる。

「どうしたらいいの」

胸の鈍い痛みは、2年経っても残ったままだ。かさぶたになってくれない。この痛みを治したくて、心がいろいろなリハビリを試していた。自分への怒りに変換する、泣く、クルミを思い出す。そのどれも、途中で冷めていく。すべては自分を守るための小手先のテクニックだと気付いてしまうのだ。

「そのまんま、受け入れていけばいいんじゃないかな」

彼が慎重にことばを選んで、わたしに向き合っている。眠たそうなとろんとした目が、一生けん命に強く、わたしにメッセージを伝えようとしている。白い海のように波打つベッドのうえで、わたしと彼は生きていた。

「ミワコはミワコの人生のなかで、その子と向き合っていくしかないんだと思う」

そうか。わたしのなかに、クルミがいるんだ。

壁にかけられた時計は静かに秒針を滑らせていて、窓の外からは自動車の走る音がかすかに届いていた。少しだけ青さを増したハーブティーの残り香。

わたしはそのなかで、クルミの輪郭をなぞる。想像上の彼女が散る瞬間ではなくて、わたしの知っていた明るくてやさしい彼女を、丁寧に編んでいく。

「うん」

わたしは彼と向き合い、クルミとの思い出を、ひとつずつ取り出してみる。

―5年後―

拍手の音があたたかく広がる。スポットライトを浴び、宝石でできた砂浜のようなドレスに身を包んだ花嫁は、きらきらとした涙を瞳に浮かべながら笑顔で手を振り、パートナーの腕をきゅっとつかんでいる。

白い円卓には、造形物のように美しい食事が並ぶ。照明が落とされ、ふたりの生い立ちを描いたムービーが上映される。花嫁の人生は、学生時代たくさんの友に囲まれ、やがて社会人となって、芯のある女性としてパートナーと出会うまで。美しいBGMと共に、彼女は大人になっていった。

そのムービーのなかにクルミが登場しないことを、わたしは少しだけさみしく思った。花嫁にとってクルミはさほど大切な友人ではなかっただろうし、彼女の死は祝いの場で語られてはいけないのだろう。けれど、もしもクルミが生きていたら、このテーブルで彼女に拍手を送っていたのだと思う。

そう、それはとても自然なことなんだ。小さくうなずく。わたしのなかに生まれるさみしさを、木の実を収穫するように摘んでみる。

「とってもきれいだったね、いい結婚式だったね」
隣に座っていたヒマリが、帰り際、そっと声をかけてきた。
「うん、そうだね」
わたしは笑顔でうなずき、拍手でじんと熱くなった手に視線を落とす。

色とりどりに着飾った人々が、清楚な白い紙袋を提げて散り散りに、夢から覚めていく。わたしたちもまた、そのなかの一粒になって、チャペルを背に歩き出す。

小鳥のさえずりが聞こえ、わたしとヒマリのきらびやかなヒールは、こまかな砂利道を鳴らした。ヒマリは何度か息を鋭く吸って黙ってを繰り返したのち、ようやく話し始めた。

「……わたし、ミワコちゃんと今日、再会できて、お話できて、うれしかった」

ヒマリは相変わらずなにかにおびえるような表情をしていたが、学生時代より少しだけ、輪郭がはっきりしていた。

「あの日のミワコちゃんとクルミちゃんに、わたし、ちゃんと謝れてなかったから」

ヒマリは立ち止まり、深々とわたしに頭を下げた。ふわりとまとめられたアップスタイルが、重力に負けて崩れそうなほどに。

「ごめんなさい。わたし、自分のことしか考えられていなかったの。ようやく、理解できたの。ミワコちゃんが、泣き叫びたかった気持ち」

早口でそう言い切り、頭を上げた彼女は、美しく完成された顔を涙で壊していた。

「クルミちゃんは、もういないんだよね」

「ヒマリはクルミのことを憶えてるんだね。わたしだけじゃなかった。よかった」

ヒマリにハンカチを渡しながら、わたしは久しぶりにこみあげてくる涙を、こらえることなく頬に流した。見上げると、うすい青空がどこまでも続いていて、クルミと向き合っているように思える。

「わたし、ミワコちゃんと仲良しのクルミちゃんがうらやましくて、ミワコちゃんを独り占めしたかった。ばかみたいだった。もっとクルミちゃんとも、仲良く、できたのに」

ヒマリのなかでも、クルミとの時間が流れ、感情の色が移ろったのだろう。わたしたちは、お互い華やかなワンピースを風になびかせながら、ぐちゃぐちゃの顔で青空を仰いでいた。

「クルミちゃんに申し訳なくて、自分の幼さが恥ずかしくて、ミワコちゃんにも連絡できなかったんだ。ずっと」

都合の良いおんなたちでしょう。でも、わたしたちは悲しいんだ。クルミがここにいないことを知るたびに、とても悲しいんだよ。

初夏のぬるい風が、涙の筋を撫でていった。

―20年後―

「ただいま」

玄関で傘の雨粒を落としながら、夕闇に包まれたガラス戸を見つめる。足元に目を落とすと、ローファーがハの字に脱ぎ捨てられている。その靴先をそろえ、リビングに続くドアを静かに開けた。

淡い光を運ぶ大窓には、雨粒が絶えまなく流れている。青い影を落としたアップライトピアノの下に、体育座りで顔をうずめた娘がいた。制服の肩は、少し濡れているようだ。

「……ただいま」

スーパーの袋をテーブルに置いて、闇に沈んだままの娘のまえにしゃがむ。

「ハーブティー、飲む?」

顔を膝のあいだにうずめたまま、娘はこくん、とうなずく。

「パパが買い込んでるおいしいやつ、特別に淹れちゃおう」

台所の小さな照明だけをつけて、お湯を沸かす。コンロの火のつく音、ティーバッグを閉まった引き出しを開ける音、秋風が窓に雨を運ぶ音。それらのあいだに、ひっく、ひっく、と、娘のこもった泣き声が聞こえる。

台所のゴミ箱の隣の隙間には、買いためたドッグフードが積まれていた。娘が収まっているピアノの下のあの空間には、愛犬モネがいつも座っていたのだ。ピアノを弾く娘を見守るように、いつも。散歩に行くのが難しくなってからも、やがて立ち上がれなくなってからも。

冷えたリビングに、花の香りが満ちていく。朝焼け色のティーは、まどろんだ夢のようだ。暗く沈んだ空間のなかでも、ほころんだ光を捉えて色づいた。

「どうぞ」

カップをそっと手渡すと、娘は両手でそのあたたかさを受け止め、鼻をすすりながら口をつける。その様子を、わたしはいとおしく思い、見守った。

「お母さん」

その呼びかけに答える代わりに、娘の頭をなでる。

「わたし、モネのこと、もっと大事にできたと思うの」

娘の目は真っ赤に染まり、眼球が歪んで、決壊したダムのように涙をあふれさせる。

「モネのこと、もっと散歩に連れていけたの、怒らなくてもいいこと、怒っちゃったの……」

うん、うん、とわたしはうなずく。
小さく熱い背中をさすりながら、わたしはわたしのなかのクルミと向き合う。

クルミ。
そういえば、あの日も、こんな秋雨の日だったね。
わたしは、いま、娘のきもちをだきしめているよ。
大切だから逃れられない、難しい感情。
わたしはこのきもちを、ずっと昔、あなたにもらったんだ。
いまもずっと、続いているよ。

そうしたら、返事のように、やさしいメロディがこころのなかに響いてきた。雨にかすんだ過去から届く、『夢』だ。

わたしは娘を抱きしめながら、そのメロディに耳を傾け、やわらかな香りを吸い込む。そうして、こころのなかでゆらゆらと光を反射する想いの欠片を、またそっと、宝物のようにしまうのだった。



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本作品は#磨け感情解像度に参加しています。

Cover Photo by Gabriele Diwald on Unsplash

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