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探偵file No.010 ゴールデンカムイ 二瓶鉄造のモデルを探る

日本獣害至上最大の惨事 三毛別事件の現場を探訪する


■ウェンカムイ(悪い神)

ヒグマは古くから北海道で人と共存してきた動物だ。
開拓期に入る前の北海道、かつて蝦夷地やアイヌモシリ(人間の静かなる大地)と呼ばれていた頃、ヒグマはアイヌの人々にとっては脅威であるとともに、恵みをもたらす神でもあった。アイヌではヒグマはキムンカムイ(山の神)と呼ばれ、神の国からやってきて熊の姿に化身した食料の神と考えられていた。そのため、「カムイホプニレ(神を旅立たせる)」、「イオマンテ(神を行かせる)」などの儀式によって神の国に送ったという。このようにアイヌの人々にとってヒグマは大切な存在だった。
アイヌの民話を見てみると、人間の姿になり、人と子をなしたという「ヌプリコルカムイ(山を支配する神)」、ヒグマ狩りの成功を約束してくれる神であり、人間の老爺からヒグマになり、神となった「ウレポロクルカムイエカシ(蹠の大きい神なる翁)」などの話が残されている。だがその一方、人を殺すヒグマはアイヌの人々にとっても忌むべきものだった。そういった熊は「ウェンカムイ(悪い神)」とされ、狩っても食わず、神の国に送り返す儀式もしなかった。今年、映画にもなった「ゴールデンカムイ」の主人公でもあるアイヌの少女アシリパさんもそう語っていた。

■ゴールデンカムイ-伝説のマタギ「二瓶鉄造」

そんな「ウェンカムイ(悪い神)」が起こした最悪の事件が、北海道苫前村三毛別六線沢で起きた三毛別事件である。地名の「三毛別」は、アイヌ語で「川下へ流しだす川」を意味する「サンケ・ペツ」に由来する。北海道天塩山麓の三毛別開拓村を突然恐怖の渦に巻き込んだ、一頭の羆による日本獣害史上最大の惨事が起きた現場を探訪した。
「ゴールデンカムイ」の聖地探訪シリーズ第3弾だ。
今回はその圧倒的な個性と、あふれる漢オーラから、死んでなおファンが増え続けるという、二瓶鉄造に焦点を当ててみたのである。勃◯!(※漫画を見てください)

二瓶鉄造

■慟哭の谷

その場所は尋常じゃないアブの大群と高湿度、そして無風の鬱蒼とした森。異様に重く纏わりつくねっとりとした空気。季節こそ違うが、まさしくこの場所で起きた悲惨な大惨事を連想させる暗い雰囲気だ。

惨劇の森
クマ穴
復元された小屋と羆

この三毛別羆事件を詳細に記録した『慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』(文春文庫)を参考に、その事件概要を追ってみた。

事件は大正4(1915)年12月9日に始まった。
三毛別の奥地、六線沢には15軒の開拓民の家があり、その家々から男衆が橋桁材の伐採搬出作業のため出払っていた。その間、家の留守を女性と子どもが預かっていた。
初めに犠牲になったのは太田家に預けられていた子ども、蓮見幹雄だった。さらに家にいたはずの太田マユが見つからず、捜索隊が結成されたが、彼らは捜索の途中でヒグマと遭遇する。
この時、ヒグマは彼らから離れて行ったため、事なきを得たが、ヒグマが出現したすぐ近くのトドマツの根元からマユの遺体が見つかった。それは足と頭の一部がかろうじて残っているだけだったという。
やがて夜になり、ヒグマの犠牲となった幹雄とマユの葬式が太田家で行われた。そして通夜も終わった頃、太田家の家屋の壁を打ち破ってヒグマが侵入。しかし、出席者のひとりが銃を放ったため、ヒグマは逃げた。だがその直後、ヒグマは太田家から少し離れた明景家を襲った。そこには男性1人に女性2人、そして子どもたちが避難していた。この家は、阿鼻叫喚の巷と化した。

午後9時頃、ヒグマはまず明景家の妻、ヤヨとその子どもたちを次々と襲った。
それを見た太田家の寄宿人、オドが逃げ出すとヒグマは標的を彼に変え、その肉を引き裂いた。これにオドが悲鳴を上げると、ヒグマは明景家の三男、金蔵を殴り殺し、斉藤巌に瀕死の重傷を負わせ、弟の春義をその場で叩き殺した。
彼らの母親であり、妊婦であった斉藤タケは子どもたちの断末魔にたまらず隠れていた場所から飛び出した。それを見たヒグマは彼女の臨月の腹を引き裂き、胎児を土間に掻き出した後、彼女を食らった。

矢口高雄 羆嵐より

明景家に集結した討伐隊はヒグマの気配のため家には入れず、発砲もできずにいた。やがてヒグマが飛び出してきたが、ヒグマを撃ち殺すことは敵わず、ヒグマは逃げてしまう。この時タケの腹から掻き出された胎児と重傷を負った巌は何とか救出されたが、2人とも間もなく亡くなった。

郷土資料館
被害に遭われた明景一家 ご冥福をお祈りします 合掌
当時の小屋
小屋の再現したもの

■討伐隊

通報を受けた北海道庁警察部(現在の北海道警察)は、管轄の羽幌分署分署長の菅貢に討伐隊の組織を指示、討伐隊の本部は三毛別地区長の大川興三吉宅に置かれた。しかし、林野に上手く紛れるヒグマをすぐに発見することはできなかった。

ヒグマには獲物を取り戻そうとする習性があり、これを利用しヒグマをおびき寄せる策が提案され、菅隊長はこの案を採用し、遺族と住民に説明した。こうして、明景宅に残された犠牲者の遺体を「餌」にしてヒグマをおびき寄せるという作戦が採用された。
作戦はただちに実行されたが、家の寸前でヒグマは歩みを止めて中を警戒すると、何度か家のまわりを巡り、森へ引き返していった。その後太田宅に3度目の侵入を企てたが、結局射殺することはできなかった。

13日には、歩兵第28連隊の将兵30名が出動した。一説にはこの日は出動せず、14日までにヒグマが討伐されなければ出動を要請することになったとも言われるが、陸軍のいた旭川から六線沢までは当時数日かかったため、しばらくは警察と住民のみで集落を守らなければいけなかった。
同日には住民が避難し無人になっていた六線沢の8軒がヒグマに侵入される被害に遭い、伝説の猟師の山本兵吉(当時57歳)がそのうち1軒にヒグマが侵入するのを目撃したがヒグマの射殺には至らなかった。
午後8時ごろ、三毛別と六線沢の境界にある氷橋(現在の射止橋)で警備に就いていた一人が、対岸の6株あるはずの切り株が明らかに1本多く、しかもかすかに動いているのを不審に感じた。菅隊長はその方向に呼び掛けたところ返事がなかったため熊だと判断し、菅隊長の命令のもと撃ち手が対岸や橋の上から銃を放つと怪しい影は動き出し闇に紛れて姿を消した。

当時の事件位置図
復元小屋内部

■最悪の獣害事件の終焉

熊に傷を負わせた翌朝、足跡と血痕を見つけた。怪我を負っているなら動きが鈍るはずと判断した菅隊長は、急いで討伐隊を足跡が続く山の方角へ差し向ける決定を下した。一方で、前日にヒグマの姿を目撃していた山本兵吉は、討伐隊の一行とは別行動で山に入り羆を追った。
山本は討伐隊より先に山を登り、ヒグマを発見した。
様子を伺ったところ討伐隊の方向に意識を向けており、山本には気が付いていなかった。
20mという至近距離まで接近した山本兵吉はハルニレの樹に一旦身を隠し、銃を構え背後から発砲し、心臓付近に命中させた。しかしヒグマは怯むことなく立ち上がり、山本を睨みつけた。油断なく第二弾を装填した山本はヒグマの頭部を貫通させた。午前10時、一連の事件を引き起こしたヒグマはついに絶命し、事件は終息した。

■巨大ヒグマを駆除した伝説のマタギ

昨年、駆除された4年間に66頭の牛を襲った別海町のOSO18を上回る、体長2.7M、体重383kgの巨大なヒグマだ。このヒグマが、わずか2日間に7人の男女を殺害、3人に重症を負わせただけではない事が後の解剖で分かる事になる。
最後はただ1人で冷静沈着に羆と対決した老練な猟師、山本兵吉がひとりでこの凶暴化した巨大羆を仕留めた。
そう、この伝説のマタギ山本兵吉こそが、「ゴールデンカムイ」に登場する二瓶鉄造のモデルなのだ。

実物の山本兵吉

幕末に生まれ、若い頃から山をかけめぐる猟師だった山本兵吉。樺太にいた若い頃にヒグマを鯖裂き包丁で刺し殺した事から、「サバサキの兄」と呼ばれた。また、エゾヤマドリやエゾリスは実弾1発で仕留めることができたと伝えられている。46歳の時に日露戦争が勃発し兵吉も従軍した。日頃持ち歩いていた当時のロシア製ボルトアクション方式ライフルベルダンII M1870と、トレードマークの軍帽はこの時の戦利品だったという。生涯で300頭ものヒグマを駆除した伝説のマタギだ。

■この三毛別だけではなかった

12日からの3日間で投入された討伐隊員は官民合わせてのべ600人、アイヌ犬10頭以上、導入された鉄砲は60丁にのぼったという。
集落に下されたヒグマは三毛別の分教場で解剖されたところ、胃から人肉や衣服などが発見された。
更に、解剖を見物しに来た人々が「このクマは太田宅を襲撃する数日前に雨竜、旭川付近、天塩で3名の女性を殺害し食害に及んだクマである」と次々に証言、実際に胃の中からはそれを裏付ける彼女らが身に着けていたとされる衣服の切れ端なども見つかった。三毛別で7名を殺害、実はその前に3名の女性を殺害していたことが判明、合わせて10名もの命を奪ったことになる。
その後、ヒグマの毛皮や頭蓋骨などはそれぞれ人の手に渡ったのちに現在は行方不明になっている。

■死後も止むことのない「羆の祟り」

こうして三毛別羆事件は終わりを告げたが、実はこの事件の後、いくつか不可思議な現象が発生している。
ヒグマは解体された後、煮て食われた。この時参加していた苫前村三線(現在の苫前町香川)の鍛冶屋の息子は、その夜から家人に噛み付くなどの乱暴が始まり、その凶暴性は日に日に増していった。
そこで彼を寺に連れて行ったところ、間違いなく熊の祟りであると宣託を下された。そのため近親縁者が集まり、一心に祈りを捧げたところ、症状は治まった。これには人々も、死後も止むことないヒグマの悪業に恐れ戦いたという。また有名なのは「熊風」や「羆嵐」と呼ばれる現象だろう。

このヒグマの死体を移動させる際、晴天だった空がにわかに曇り、一寸先も見えない大暴風雪が吹き荒れた。この日の最大風速は40メートルとも50メートルともされ、熊の暴挙が天の怒りを呼んだとか、逆に熊の怒りが嵐を呼んだなどと伝えられ、熊嵐と呼ばれた。
この熊風の伝説は今でも留萌地方に残されており、『新苫前町史』では12月に起こる吹雪を熊風と呼ぶ、という話が記録されている。
そしてこの事件を題材とした吉村昭氏の小説『羆嵐』の新潮文庫版の倉木聰氏の解説では、三毛別羆事件の目撃者であり、後にその仇をとるために熊撃ちとなった大川春義の家族の話が載せられている。それには、大川氏が熊を獲ると風が吹き、ヒグマを仕留めたことが分かる。それが羆嵐なのだと語られている。

■二瓶鉄造のモデル

ということで、ゴールデンカムイのイブシ銀『二瓶鉄造』。死んでなおファンが増え続ける渋さ。『二瓶鉄造』は大好きなキャラでした。
この人物のモデルは、当該事件を小説化した『熊嵐』に出てくる銀オヤジ。そして、この銀オヤジっていうのが、実際に仕留めた伝説のマタギ山本兵吉という人物がモデルでした。そして、この銀オヤジっていうのが、実際に仕留めた伝説のマタギ山本兵吉という人物がモデルでした。
山本兵吉は生涯で300頭のヒグマをとったという。以上、今回の「ゴールデンカムイ」聖地探訪は、二瓶鉄造のモデル、伝説のマタギ山本平吉にまつわる日本最大の獣害事件現場を探訪してみました。

二瓶鉄造

◼️[追記]獣害は人災か

道内では、明治、大正、昭和中期まで、開拓に入った人たちのクマによる人身被害が後を絶たなかった。それはなぜなのか。
明治期の開拓者移住に際し、北海道はヒグマを害獣に指定していたにもかかわらず、住民に対してはクマ対策(知識教育含め)をまったく行っておらず、無防備だったことが最大の要因と指摘する有識者が多い。
一方、役人らには「クマよけラッパ」が支給されていたという。それは人の存在をクマに伝えるもので、豆腐屋のラッパのような甲高い音が鳴り響くものだった。ところが、開拓民に対してはクマよけラッパを支給することも、使用の奨励もせずに知識教育もなし。
昔から北海道に暮らしてきたアイヌは、外出する際は「タシロ」と呼ばれる鉈と、「マキリ」という小刀を腰の左右に身につけていた。
ゴールデンカムイの主人公アシリパさんも然りである。

アイヌは、ヒグマは人を攻撃する際、抱きついて頭をかじったり、爪で引っかいたりする。その際、どちらかの手が使えれば、タシロかマキリを突き刺せます。アイヌはクマに痛みを感じさせることで撃退できることを、経験的に知っていた。
最近の事例では、昨年10月に道南の大千軒岳を登山中の消防士がクマに襲われた際、ナイフで目の周囲や首を突き刺すと、クマは逃げ出したという。ナイフで応戦して助かったように、最後まで抵抗して生還した人が多い。山に入る以上、そういう装備と覚悟も必要だと思う。しかし、そのようなアイヌが培ってきたクマ対策は、開拓民に活かされなかったのだ。
ヒグマはライオンやトラと同じ食肉目に属する猛獣である。
行政はそれを踏まえたうえで、入植者にクマ対策を周知すべきだった。教育がまったく行われず、本州からやってきた人々をクマの生息域に送り込んだわけで、その結果、多くの犠牲者が出たのだ。これは、紛れもなく人災だ。

そして、昨今のアーバンベアー問題。
新しく法改正されるほどヒグマのみならず本州のツキノワグマも人里、そして市街地に出没するようになった。
気候変動、緩衝帯森林、保護による個体数の増加、さまざまな理由があると思われるが、共存の決定打は見出せないのが現状だ。
ミツバチがいなくなり、スズメがいなくなったり、エゾシカの異常繁殖で草木の食害が問題化したり、それにより生態系の変化が進んでいる。
シーシェパードなど国際金融資本家が後ろ盾の過激な極左系自然保護団体は、クジラを守るためなら人間の殺害も辞さないという過激な思想で保護活動をする。一方で江戸時代より捕鯨を行って来た日本の漁業。イヌイットのアザラシや白熊狩猟は言うに及ばず、人間は生きる為に狩りをして肉を食べてきた。
家畜技術が向上し、狩りをせずに牛、豚、鶏などの美味しい食肉を享受できるようになったが、山に棲むヒグマも鹿も家畜の牛も豚も等しく命ある生き物。宗教、思想で命に優劣をつけるところに必ず争いが起き、それぞれの正義を振り翳して戦争が起きる。

ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから かなしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮
ミミズだって オケラだって アメンボだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ

戦争で弟をなくした、ヤナセタカシさん作詞の曲。私が生まれた昭和38年3月に発表されている。ヤナセさんはその後、アンパンマンを世に送り出した人だ。

OSO18

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