私の嫉妬その10:人気者
学校でも、会社でも、SNSでも人気者はいるものだ。人が集まれば、どこでも人気者は生まれる。同時に不人気な人も(少なくとも相対的には)出てくるのは必然だろう。
これまで私は人気のない人生を歩んできた。クラスメイトの輪の中心になるどころか、輪の中にすら入れなかったり、私だけ遊びに誘われなかったり、話題にあがる機会も少なかった。とはいえ、嫌われ者でもなく、大きないじめにあわなかったのは幸いだ。良くも悪くも平凡に生きてきた。
SNSでもそれほど人気者ではない。主にTwitterを交流の場として使っているが、気合を入れてツイートしてもいいねは大抵一桁でリツイートはゼロ、たまにちょろっとリプライが来るという感じだ。ちなみにフォロワーは千人弱で多いとも少ないともいえない。noteでもスキの数は平均して少なく、読んでも面白くないのか、そもそもあまり読まれていないのか。
人気者でない理由はなんとなくわかっている。私が他人への興味が少ないこと、引っ込み思案であること、ユーモアがないことが関係しているのだろう。リアルだろうとSNSだろうと、この3つを発揮してしまう。他人とつながりを持つのにあまり向いていないのだろう。実際、たくさんの人と交流するのはあまり得意ではない。
だがしかし、活発な交流を好まないにも関わらず、人気者に嫉妬してしまう自分がいる。他人に対する好奇心。多数の人とつながることができるコミュニケーションスキル。さまざまな人を惹きつける力。いずれも私にはないものだ。クラスの中心人物や、先輩から可愛がってもらえる同期や後輩、インフルエンサーの多くはこのような、才能というか、性格というか、スキルというか、そのようなものを身につけている。
嫉妬の背景には何があるのか。それは自分が「名前のある登場人物」であるか「名前のない登場人物」であるかどうかだと思う。人気者は人々に対して影響を与えるし、その結果自分自身の人生を肯定できる。数々の人生の中に「名前のある登場人物」として出演する。対して、人気のない人というのは誰かの人生にとって、更に言えば自分自身の人生にですら不安定な存在に留まることがほとんどである。小説や映画でいうところの「名前のない登場人物」だ。モブキャラといってもいい。存在感がないのだ。
別に人気者にならなくてもいい。小さく小さく生きていきたい。そんな人も少なからずいるだろう。しかし、大多数の人は「名前のある登場人物」にはなりたいはずだ。小さくてもいいから誰かの人生に影響を与え、存在感を示す。そんな人間になりたい。最低限自分自身の人生ではそうでありたい。もしかしたら、自分自身の人生で自分が揺るぎなく「名前のある登場人物」であるという高い自己肯定感を持っていさえすれば、誰かに嫉妬せず、小さく小さく生きていくことも可能かもしれないが。
人気者となって生きるのも、小さく小さく生きるのも、社会性が皆無で自己肯定感の低い私には難しい。自分という存在への肯定は他者との関係の中で培われていく側面を持っている。自分という存在は自分ひとりだけでなく、社会や他者という外的要因によって構築されていく部分がある。人間との交流が苦手で社会性のない私は、正常に自己肯定感を持つことなく、楽しそうで充実した人生を送る人気者に一生嫉妬し続けるだろう。
ブログとはまた違ったテイストです。