自民党憲法改正草案再読(14)

 信教(宗教)の問題は、「こころ」の問題。信教(宗教)は、かならずしも人には語らない。語らなければある宗教を信じていないというわけではない。「無言」でできる思想、良心の活動。語る人もいるが「無言」という表現もある。
 一方、思想には「無言」とは相いれないものもある。ことばであらわし、肉体であらわす「思想/良心」もある。生きている限り、人は必ずと言っていいほど、語り、行動する。第21条は「無言」ではなく、「有言」の「自由」について規定したものだ。

(現行憲法)
第21条
1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
(改正草案)
第21条(表現の自由)
1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
3 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。
第21条の2(国政上の行為に関する説明の責務)
 国は、国政上の行為につき国民に説明する責務を負う。

 改正草案は、ここでも「これを」を削除している。テーマが何であるかを意識させないようにしている。しっかり読んでください。テーマはこれです、というのが「これを」の重要な意味であり、つかい方なのだ。「保障する」は「侵してはならない」であることは何度も書いた通り。
 改正草案の問題点は「第二項」と「第21条の2」の新設である。

前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。

 「前項の規定にかかわらず」は非常に乱暴な規定である。第20条の「この限りでない」どころの騒ぎではない。
 そして、ここに「公益及び公の秩序」ということばがつかわれていることに注意しないといけない。改正草案は「公共の福祉(みんなの助け合い)」ではない、あくまでも「公益及び公の秩序」という。そして、それを「害する」という行為を禁じることで維持しようとする。
 「公の秩序」というのは、非常にあいまいなことばだが、いちばん大きくとらえれば「憲法がつくりだす秩序」というものがある。それから憲法の下の法のつくりだす秩序というものがある。
 それを「害する」活動とはなんだろうか。「改憲」というのは「害する」活動ではないと言えるだろうか。たとえば、改憲草案をつくるというのは「憲法を害する活動」ではないのか。たぶん、自民党は、「害するではなく、時代に合わせて改良する活動」というだろう。一方、改憲に反対している人は、自民党の改憲草案は「憲法を害する活動」と定義するだろう。「改良する/害する」は、立場によって、違ってくる。
 これが大事。
 つまり、菅政権は許せない、あるいは東京オリンピック開催に反対と国民が叫んだとき、それは許せない、反対と叫んだ人にとっては「国を改善する活動」であるけれど、菅から見れば「国を害する活動」になる。これを考えると、「公益及び公の秩序」とは、政府が考えている「利益、秩序」、つまり「政府の利益、政府の考える秩序」にすぎない。
 言い換えると、現行憲法は、革命の自由を認めていると読むことができる(そのための結社や言論の自由を認めていると読むことができる)が、改正草案は、そう読むことはできない。
 革命というおおげさなことばではなく、たとえば投票によって政権を交代させるという活動をこれにあてはめると、どうなるか。「自民党が過半数割れをした選挙結果は、公の秩序を乱すから認められない」ということになる。それ以前に、自民党を批判する選挙活動は公の秩序を害するから禁止する、ということも起きるだろう。
 これは、おおげさな「予測」だろうか。かもしれない。しかし、次の「検閲は、これをしてはならない」と、現実に起きていることを組み合わせると、私にはおおげさな予測には思えない。
 菅は学術会議委員の任命に当たって、六人を拒否した。それまで学術会議から提出された候補者を全員任命するという形だったものを、名簿を事前に調べ(検閲し)、そこに菅の意思を反映させた。「検閲ではない」と、もちろん菅は言うだろう。しかし、その六人が菅政権にとっての「利益、秩序」に反すると事前に判断するというのは、私から言わせれば検閲である。六人が学術会議でなんらかの活動をして、それが「国益、国の秩序を害する」ということなら、まだ六人を排除する(任命したけれど、辞任させる)ということはありうるだろうが、学術会議で活動する前に、その活動を、別の情報をもとに封じるというのは検閲に等しい行為だろう。
 改正草案に第四項目は書かれていないが、きっと、存在する。それは

前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした文書や通信については、この限りではない。(検閲してもいい、通信の秘密を侵してもいい)。

 である。書いていないけれど、前条項を適用する、ということが行われるだろう。
 これと密接に関係するのが、次の新設条項。

第21条の2(国政上の行為に関する説明の責務)
 国は、国政上の行為につき国民に説明する責務を負う。

 この唐突な感じはなぜだろう。もし国が、ある活動を「公益及び公の秩序を害する」と判断し、その活動に規制を加えた場合、国は国民に説明する責任がある。だが、第21条は「表現の自由」に関するする条項である。これは、言論を弾圧したとき、あるいは結社の自由な活動を侵害したとき、国はその責任を負う、という意味だろう。もし、他の「表現の自由」に関すること以外のことをいうのだったら、この条項がここにある必要はない。
 この条項をわざわざ「国が表現の自由を国が侵害したとき」ということばを省略してまで、ここに挿入したのはなぜなのか。きっと、「表現の自由」に対して「規制をかけることがある」ということを前提にしているのだ。そして、そういうことをした場合、説明責任を負う。
 現実では、どういことが考えられるか。
 名古屋での「表現の不自由店」が妨害され、中止に追い込まれるということが起きた。こういうとき、ほんとうは国に説明責任がある。国は、展覧会を聞かした人の「表現の自由」を守ることができなかった、保障できなかったからである。
 きっと、国は(当時は、安倍が首相だった)、「表現の不自由店」に関して中止させたのは国ではなく、名古屋市長だから、国は関係ないというかもしれない。しかし、国には「表現の自由を保障する」義務がある。また、、そのとき問題になった「表現のテーマ」は、慰安婦問題であり、天皇制である。それは「名古屋市政」の問題ではなく、国が向き合うべき問題、国として解決しなければならない問題である。あのとき、国は「知らん顔」をしたのである。展覧会を企画した人の「表現の自由」「思想の自由」を保障しなかったのである。しかも、何の説明もしなかったのである。説明か何かわからないものを、名古屋市長に丸投げして、知らん顔をしたのである。
 もう一つ別な問題にも結びつけて考えてみたい。最近の事件に「赤木ファイル」がある。「赤木ファイル」は安倍政権時代の森友学園の土地買収に関係する一連の文書である。それは、ある意味で、赤木さんの「思想(公務員としての価値観)」「言論、表現」をまとめたものだ。「内部告発」は「思想の自由」であるはずだ。その公開を遺族が求めている。これに対して、国は公開を拒み続けた。公開したものも、黒塗りが多くて公開とは言えない。赤木さんの「表現の自由(思想の自由)」を保障したとは言えない。黒塗りにすることで、自由を侵害した。このことに対して、改正草案を当てはめると「国は説明責任を負う」のだが、実際は、説明していない。
 これについても、

前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした文書については、この限りではない。

 と主張するだろう。「赤木ファイル」の公開(表現の自由、まとめたものを公開すること)は、「公益及び公の秩序」を害することになるから、公開しない。そもそも財務省内の文書は、赤木さんの「表現」ではない、と言うだろう。「公文書」である、と。だから、「情報公開」には応じない。
 これは、言い換えれば、公益及び公の秩序に合致する場合に限り、国民に説明するということだ。そして、公務員による「内部告発」は、これを禁じる、ということになる。
 改憲草案は「国政上の行為に関する説明の責務」と定義しているが、私には「情報公開に関する国の説明の責務」とも読める。というよりも、「情報公開」と、全体に関係すると思う。「国政上の行為」は範囲が広すぎるし、なによりも、「国政上の行為」あまりにも唐突で、なぜ「思想及び良心の自由」と関係するかわからない。
 「結社の自由」と結びつけると、この「情報公開」を念頭に置いた条項だということが少しはわかりやすくなるかもしれない。「情報公開」を求めるのは、たいていの場合は政府の行為に関する疑問を持ったひとである。情報公開請求は個人でもできるが、多くの場合同じ疑問を持った人があつまり(結社の前身、ということもできる)、請求の準備を進める。そういうことを「封じ込めたい」のだ。「表現の自由」には自分で表現する自由と同時に、表現されたもの(たとえば情報)を自由に閲覧させろというものもある。「表現の自由」は同時に「閲覧の自由」なのである。
 ここからもう一度「表現の不自由店」に戻ってみる。あのとき「侵害」されたのは、制作者の「表現の自由」だけではなく、鑑賞者の「鑑賞の自由」も侵害されたのだ。だれでも、自分の好きなものを見る権利がある。それを多くの人が剥奪された。「見る権利の剥奪」というのは、あまり問題にならないが、もっと問題にすべきことがらである。
 「表現の不自由展」の問題が起きたとき、「表現すること自体を禁じたものではない、どこでも芸術はできる」というような意見がネットに飛び交っていたが、「表現」は制作者がいれば成り立つというものではない。鑑賞者との共同作業の一面がある。「表現の自由」は「表現をする自由」と同時に「表現を見る自由」でもある。(これは、あとで出てくる「学問の自由」についてもいえる。)
 この条項は「森友学園事件」が発覚する前に書かれたものだけれど、私は、そんなことを考えた。「内部告発の禁止」(内部告発も、思想の自由、である)、「見る権利の要求を弾圧する」(情報公開の禁止)につながっていく問題が隠されていると思う。

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