ジョナサン・グレイザー監督「関心領域」

ジョナサン・グレイザー監督「関心領域」(★★★★★)(Tジョイ博多、スクリーン5、2024年05月24日)

監督 ジョナサン・グレイザー 出演 クリスティアン・フリーデル、サンドラ・ヒュラー

 注目したのはふたつのシーン。
 ひとつ目は、リンゴをひそかに配給(?)していた女性が、お礼の楽譜をみつけ、それをピアノで弾いてみるシーン。無残に殺され、死んでいくしかない人間がつくりだした、その音。彼は(彼女かもしれないが)、その音を実際に聞くことはない。音楽家の頭のなかには音が鳴っているかもしれないが、それはあくまでも抽象的なもの。ピアノであれ、人間の声であれ、なにかによって現実の音になる。そして、不思議なことに、その現実の音を聞くとき、私たちは現実の音以外のものをも聞き取る。その音楽をつくったひとのこころ、夢や願いを聞き取る。それをことばにすることはむずかしいが、ことばにならない何か、あるいはことばにしなくてもいい何か。それを聞き取り、そのひととつながる。音を聞いたのか、音楽をつくったひとのことばにならないことばを聞いたのか。これは、区別しなくてもいい。それは便宜上、ふたつわけただけであって、区別できないものだからだ。そして、これは、音楽を書いたひとと音楽を演奏してみたひとが、けっしてあわない、離れているからこそ、強く結びつく。その結びつきに、「距離」がなくなる。
 映画では、この曲に詩がつけられており、歌声が流れる。それは映画のなかの「現実」には存在しない音 (ことば)なのだが、そういう完全に別なものとも結びつき、やはり「距離」というものを消していく。こころは、どんな「距離」をも超越して結びつき、そこからまだ存在しない世界をつくりあげていく力を持っている。短いシーンだが、ほんとうに美しい。
 もうひとつは、クリスティアン・フリーデルがアウシュビッツからベルリン(?)に栄転(?)したあとのシーン。ラストの直前、執務室から出てきた主人公が、階段で吐いてしまう。二回、吐く。どうしてだろうか。アウシュビッツの残酷さがわかったからである。残酷さというような、軽いことばでは言えない、どうしようもない何ものかが肉体に遅いかかって来たからである。こんなことを書くと、ホロコーストに関係した人間を許しているように聞こえるかもしれないが、あえてそう書くのは、ここでもやはり「距離」が問題になるからである。
 この映画の主題は「距離」なのである。
 アウシュビッツにいるとき、そこの所長をしているときは、アウシュビッツの残虐とかれの肉体のあいだには「距離」がない。それが見えない。同じように「距離」のない場所に、美しさがあるからだ。美しい家、美しい妻、美しいこどもたち。庭の緑、豊かな自然。彼は、いつでも、それにどっぷりとつかり、すぐそばにある「美しくないもの」を消してしまう。美しいものに触れていれば、醜く、酷たらしいものは消えると思っている。洗い流せると思っている。自分を清められると思っている。だから、ユダヤ人の骨が流れてきた川から逃げ帰ると、家でからだを洗う。こどもたちのからだも真剣に洗い清める。ユダヤ女性とセックスしたあとはペニスを洗い清める。
 ところがベルリンに来てみると、彼を洗い清めるものがない。彼のまわりには、美しい妻も、美しいこどもたちも、美しい家もない。彼らは、アウシュビッツの家にいることを選び、主人公だけがベルリンに単身赴任(?)している。そして、遠く離れて、その「距離」を思うとき、その「距離」のなかにアウシュビッツが押し寄せてくる。アウシュビッツにいたときは、収容所と家のあいだには「塀」があったが、ベルリンに来てみると、「塀」が見えない。「塀」がアウシュビッツを隠してくれない。「距離」のなかに「塀」が飲み込まれて消え、「塀」を越えてアウシュビッツが迫ってくる。
 そしてそのとき、彼はまた、こんなことも考えているに違いない。美しものを愛し、美しさにこだわった妻。そのこだわりは、夫や家族といっしょにベルリンへ行くことを拒絶した。その拒絶には、醜さはないのか。自己中心的な残酷さはないのか。そして、その自己中心的な美への愛好、そのつまらない感覚こそ、アウシュビッツを存在させたものなのである。ひとのことは知らない。自分が幸福だと感じられるのがいちばん大切。見たいものだけを見るのが人間なのだ、見たくないものは隠して見なかったことにするというのが人間なのである。
 ところで、この「距離」であるが。
 人間の「距離」は、実に、不思議なものである。「近く」にあるときは、「遠く」にあるときよりも簡単に「遠ざける」ことができるのである。隠すことによって、「見なかった/聞かなかった」、あるいは「気づかなかった」と言えるのである。もちろん、それは嘘であるが、人間は簡単に嘘がつけるし、脳は自分の都合がいいように嘘を納得するものである。つまり、嘘に慣れる。嘘と思わなくなる。
 一方「遠く」にあるものは「遠ざける」ことができない。すでに「遠い」から「遠ざける」には意味がない。そればかりか、「遠い」から隠すこともできない。逆に「遠く」にあるものは「近づける」というか、こころが「遠く」までいってしまうのである。「遠い」からこそ、こころが「会ってしまう」のである。こころが会いに行った、「近づいて行った」のだから、そこには嘘がない。もちろん「嘘をつくため(だますため)」に近づいていくひともいないわけではないだろうが、たいていは、ひとはほんとうのこころで近づいていく。
 「近づいたもの」(近くにあるもの)をひとは愛してしまう。塀によってアウシュビッツのホロコーストが遮られ「遠ざけられる」とき、塀に守られた「近くにあるもの」(美しい家、美しいこども)を妻が愛してしまう、そしてそれを手放すことを拒否するのは、とてもとても単純なことなのだ。
 だからこそ、「距離」である。
 主人公の妻、サンドラ・ヒュラーの母は、遠くから娘に会いに来た。そして、その美しい家を見た。しかし、同時に塀の向こうで行われていることを、匂いと音によって知った。匂いや音は「塀」には遮られない。彼女は自分で「隠した」のではないから、「隠されたもの」が気になる。それを「見つけてしまう」。「距離」が「視覚」とは違った形で人間に作用する。そして、その隠された「近さ」(見つけてしまった衝撃)に耐えられずに、ひとりで逃げるように「遠ざかっていく」。「遠ざかる」ことで、自分を守る。クリスティアン・フリーデルやサンドラ・ヒュラーは「遠ざかる」のではなく「塀」によって視線を「遠ざけた」。「距離」を演出したのである。

 さて。
 ふたたび「距離」である。
 アウシュビッツを考えるとき、そこには「時間の距離」があり、また「空間の距離」もある。(日本からは遠い)。また「残酷/残虐」とは何か、という「哲学的距離」もある。ホロコーストの実際の執行者を動かしていたのは「凡庸さ」であるというのは、ハンナ・アーレントの指摘だったが、それはこの映画でも描かれている。美しい家庭がいちばん大切というのは「凡庸な結婚した女性」の考え方のひとつである。「凡庸さ」というのは、だれにとっても非常に身近である。「距離がない」。ここから、どうやって「距離」をつくりだしていくか。その「つくりだした距離(思考のことば)」で、アウシュビッツをどれだけ自分に「近づける」ことができるか。ことばの運動は、時間の距離も空間の距離も、確実にかえることができるはずである。そのための、ことばを運動をはじめなければならない。私はいま、この映画によって試されている。お前は、いったい、どんな「距離」をとろうとしているのか、と。

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