「公金」はだれのもの?

「公金」はだれのもの?
   自民党憲法改正草案を読む/番外402(情報の読み方)

 「日本学術会議」の問題について、菅が新聞インタビューに答えている。 2020年10月06日の読売新聞(西部版・14版)は1面、2面、4面、10面で記事を書き分けている。2面が「要約」にあたる。見出しは2本。(番号は、私がつけた。)

①任命見送り正当性強調
②首相「学問の自由 侵害せず」

 ①については、記事ではこう書いてある。
<blockquote>
 学術会議には多額の公費が投入されていることなどから、任命権の行使は当然とした。
 学術会議の年間予算は約10・5億円。内訳は人件費など事務局の費用に約5・5億円、政府などへの提言活動に約2・5億円、国際的な活動で約2億円などとなっている。
</blockquote>
 公費を出しているから「任命権」がある。これは、一見正しいように見える。しかし、「日本学術会議法」に「政府が予算を出しているから、任命権は政府にある」と規定しているか。そんなことは書いてない。
 だいたい「公金を出しているから、何かに対して権力を行使する権利がある」というのはおかしい。
 「公金」のもとである「税金」は、政府の考えに反対の人も収めている。日本学術会議は、菅が設置した機関でもなければ、自民党が設置した機関でもない。
 もし、自分の考えを補強するための「機関」が必要だというのなら、菅なり、自民党が「自費」で設置すればいいのである。
 「公金」をつかうかぎりは、そこに自分の意思を恣意的に反映させてはいけない。
 「公費を投入しているから任命権がある」というのは錯覚である。「公費」には必ず政権批判者の収めた税金も含まれている。公費は菅の私費ではない。

 ②については、こう書いてある。
<blockquote>
 「学問の自由」を侵害しているとの指摘に対しては、「全く関係ない。どう考えてもそうではないでしょうか」と語気を強めた。学術会議の会員であるか否かにかかわらず、大学などで自由な研究活動が行えるとの思いがあるとみられる。
</blockquote>
 「学術会議の会員であるか否かにかかわらず、大学などで自由な研究活動が行える」という論理は、菅の決定を支持するひとの間で多く聞かれる論理だが、そういうひとは菅のいう「自由」に、金の問題をからめて見つめなおすといい。
 すでに菅は「公金を出しているから任命権がある」という旨のことを言っている。大学には公金が支出されている。つまりどんな研究にも公金が支出されている。公金を出しているのだから、その使い道を指定する権利があると、菅はいつでも言い直せる。そして、実際にそういうことが起きるだろう。
 そういうことをさせない、というのが「学問の自由の保障」である。そして、それは「権力は学問の自由を侵害してはならない」という、権力に対する「禁止規定」なのである。菅は、憲法が、権力がしてはいけないこと(禁止規定)で構成されているという基本的な事実を忘れ、憲法の精神から逸脱している。
 簡単に言い直せば「憲法違反」をしている。
 学者は、公金をつかって権力が望まないことを研究する自由を持っている。それを公金を支出しないという形で拘束するのは、憲法で禁じられている。
 どんな活動にも金がかかる。そして、その金の額の大きさは、何ができるかの規模の大きさにも関係してくる。「学術会議の会員であるか否かにかかわらず、大学などで自由な研究活動が行える」というのは空論である。会員であった方が(予算を多く持っていた方が)、より自由な研究活動ができる。

 どんな分野でもそうである。
 金がないと「自由な行動(自分の思いのままの行動)」はできない。金がなくても、自由にものは考えられる。金がなくても運動できる。金がなくても詩は書ける。小説は書ける。音楽活動はできる。「詩集出さなくたって、詩を書いていれば詩人でしょ?」「音楽活動ってコンサートだけじゃないでしょ? 家で一人で歌っていても音楽でしょ?」
 こういうことは、すべて実際に、そういうことをしていないひとの主張。
 すぐれた学問、芸術、スポーツには「公金」が支出されている。それは「公金」を支出することでそれを助成するためである。活動をしているひとは「公金」をもらうために活動しているわけではないだろうが、公金を受け取ることができれば、それを有効につかいさらに活動を推し進めることができる。自分の成長にもつかえるし、これから育ってくるひとのためにもつかえる。
 そして、こういうとき、どういう分野であるにしろ、何がすぐれているのかというのは「専門家」以外には判断がむずかしい。100メートル競走のようにタイムでわかることもあるが、多くのことは「客観的基準」があるようで、ない。誰に、何に「公費」を支出するかは、「専門家」に助言を受けるしかない。
 菅は「公金を支出する」権利を持っている(予算を提出できるのは与党だけである)。しかし、どの研究に金を出し、どの研究に金を出さないか(金を受け取る権利を持つ「会員」をどうやって選別するか)を決める権利を持っていない。もし、ある学問が研究に値しないというのなら、その「証拠」を示さないといけない。公金を支出しているからこそ、「公平」でなくてはいけないのだ。

 ところで。(補足だが)
 読売新聞は、とてもおもしろいことを書いている。「学問の自由」に対する学者の意見として、こうい声を紹介している。
<blockquote>
 学術会議は17年、防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」に反対する声明を出したが、一部の研究者からは「安全保障に関わる研究の禁止を大学などに強要していることこそ、学問の自由の侵害だ」と不満の声が出ている。
</blockquote>
 これは、一見正しそうに見える。
 でも、これって、単なる「内輪もめ」の話であって、権力(政権)とは関係がない。それこそ「学術会議」が何をいおうと、その人が研究したいのなら自分で研究すればいい。菅の論法をつかえば、別に大学で研究しなくてもいい。
 言い直そう。
 読売新聞が紹介していることは、菅とは関係が6人を任命しなかったこととは関係がない。菅が「安全保障に関わる研究の禁止を大学などに強要している」わけではない。
 「学問の自由」というとき、問題としているは「(政治)権力」と「学問」の関係である。
 読売新聞は、その「政治権力」と「学問の自由」という問題を、学者内部の意見の対立の次元に引き下げて、「学問の自由を侵害しているのは学者だ(学術会議だ)」と主張することで、菅を援護射撃している。


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