自民党憲法改正草案再読(13)


 憲法の条文は、常に前に書いた条文を説明する形で展開する。

第19条
 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 この規定だけでは「思想及び良心の自由」というものが具体的に何を指すか(どういうものを「思想」「良心」と定義しているかわからない。わかるのは「侵してはならない」と国に禁止を命じているということだけである。
 だから、こう言いなおす。

(現行憲法)
第20条
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
(改正草案)
第20条(信教の自由)
1 信教の自由は、保障する。国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。

 私は信仰心がないし、死んだら何もないと思っているので、この条項をしっかり受け止めることができないのだが。
 しかし、多くの人は生死の問題を心の平安の問題ととらえているように思える。生きているときもそうだが、死んだらどうなるのか。生きているときは生きる努力をするが、死んだら「努力」できるのか。「努力」で死後の世界を平穏に暮らしていけるのか。そういう不安から「宗教」に頼る。生死にかかわるからこそ(あるいは死にかかわるからこそ)、「思想」のいちばんの問題として「信教」を取り上げているのだろう。何を信じるか、それは各人の自由である。「何人」を私は「個人(ひとり)」ではなく、「複数の人間」(だれであっても)と私は読んでいる。「何人」を私は「各人」と読んでいる。「各人」に、その「自由を保障する」。「保障する」は、「(国はこれを)侵してはならない」(第19条)ということである。
 そして、宗教というのは、たいていの場合、「個人」のものであるけれども、「個人」だけでは「宗教」にならない。たいてい、寺とか教会とか、いわゆる「組織/団体」といっしょに存在する。「組織/団体」というのは「個人」に比べて「力」を持っている。言いなおすと、「個人(ひとり)」は「組織/団体」に対して、その「権利を侵す」ということはしにくい。しかし、「組織/団体」は「個人(ひとり)」に対しては「権利を侵す」ということがあり得る。寺や教会が「あなたの考え方は私達の信仰とはあわない。だから、この寺、教会から追放する」ということが起き得る。それはもちろん「組織/団体」と「個人」の問題なのだが。
 ここで、現行憲法は釘を刺す。宗教団体と個人の力関係を配慮してのことだと思う。
 宗教団体は常に個人の上位に立つ。だからこそ「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」。国から特権を受けて、信者に対して政治的に働きかけてはいけない。
 これは「主語」が「宗教団体」だが、憲法は「国の行動を拘束するもの」という立場から読み直すと、「国は、いかなる宗教団体にも特権を与えてはならないし、または宗教団体を通じて政治上の権力を行使してはならない」ということ。つまり、政治団体を政治のためにつかってはならない、宗教団体を通じて、国民に「信教」を強制してはならないということである。
 この条項から見ると、たとえば靖国神社で戦没者慰霊は、靖国神社を通じての「ひとつの宗教」の強制であるから、違憲である。靖国神社で慰霊されたくないという遺族の「信教の自由」を「侵している」からである。
 改正草案は
①「何人に対してもこれを」を削除している。したがって、改正草案が成立すれば、第二次大戦での戦没者は例外的に全員を靖国神社で慰霊する、ということが可能になる。「だれに対しても」ではないからだ。例外の余地を残すことになる。(これを、を削除しているのは、20条のテーマが「信教の自由」であることを、あいまいにしている。憲法を読む人に対して、これがテーマであるということを意識させないようにしている。)
②は「政治上の特権を行使してはならない」を削除している。つまり、国は「政治上の特権を、ある宗教団体を通じて行使できる」という可能性を残している。靖国神社を通じて「戦没者慰霊祭」を開催し、そこに遺族を集め、慰霊させるということができるのである。
 「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」は、現行憲法と改正草案に共通する(改正草案は、変更をくわえていない)が、意味合いが違う。
 現行憲法は、あくまで第一項で「国に対する禁止事項」を明記し、次に「国民」の「信教の自由」を言いなおしたのものである。国は宗教団体を通じて政治活動をしてはならないのだから、「何人(国民各人)」は、そういう催しに参加しなくていい(参加を強制されない)自由を持っている。
 改正草案は、こういう「国に対する禁止」→「各人の自由(の保障)」がはっきりとはつたわらない。
 第三項は、国の宗教活動禁止。現行憲法は「宗教教育その他いかなる宗教的活動」と書いているが、改正草案は「特定の宗教のための」を挿入し、「いかなる」を削除している。つまり「特定の宗教のため」でなければ「なんらかの」宗教活動ができるのである。
 私は「組織/団体」を「寺、教会」と書いてきた。簡単に言いなおせば「仏教、キリスト教」だが、実際の「信仰(宗教)」というのは「仏教/キリスト教」というあいまいなくくりではない。いつでも「門徒」のような問題といっしょに動いている。きわめて個別的なものである。同じようであっても、各人にいわせればまったく違うものであり得る。そういうことを改正草案は無視している。
 そして、「信教」を個別的ではない存在にしてしまったあとで、「なんらかの」宗教活動を、「社会的儀礼又は習俗的行為」と言いなおす。靖国神社での慰霊の奉納、慰霊行事は「宗教行事」ではなく、戦没者を追悼するという「社会的儀礼」であると定義することで「信教の自由」を「侵害した」ということにはならない、と定義しようとするのである。
 死者を悼まないというのは、一般的には批判を受ける行為であるけれど、死者を悼まないからといって「公共の福祉」に反するわけではない。追悼式の会場に侵入し、そこで祝い歌を歌えば、「みんなで悲しみを共有している(悲しみを共有することで、生きる力を支えあっている)」ことを妨害する(公共の福祉)に反するだろうけれど、その会場に行かない、家で一人で個人を思っているということは「公共の福祉」に反しない。だから、個人の自由である。しかし、改正草案の「理念」から言えば、「みんなが参加する」という「公の秩序」に反するという理由で、一人で家で個人を忍んでいる、という行為は許されないことになるだろう。つまり、追悼行事への参加を強制されることも起き得るだろう。
 改正草案は、国への「禁止」が、あいまいであり、緩やかである。「この限りではない」という「例外」があることを、わざわざ憲法に書き込むのは「例外」を実行するということである。


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