「閉鎖的」とは、どういうことか。

「閉鎖的」とは、どういうことか。

   自民党憲法改正草案を読む/番外411(情報の読み方)

 2020年11月03日読売新聞(西部版・14版)に衆院予算委記事がある。1面の見出し。 

首相「学術会議は閉鎖的」/初の予算委 任命拒否「正直悩んだ」

 なんだろう。この見出し。「正直悩んだ」とは何を悩んだのか。こんな「心情」が「6人拒否」とどう関係があるのか。菅が悩んでいるから、悩みに寄り添え(同情しろ)というのか。学問や政治は「同情」の問題ではないだろう。
 ということは、またあとで触れることにして、記事を読んでみる。(番号は、私がつけた。)

①衆院予算委員会は2日、菅首相と全閣僚が出席して基本的質疑を行い、与野党の論戦が本格化した。首相は日本学術会議会員の選出方法について「閉鎖的で既得権益のようになっている」と指摘し、組織改革の必要性を訴えた。
②首相は「官房長官当時から選考方法、あり方について懸念を持っていた」と述べた。その上で、「会員約200人、連携会員約2000人の先生とつながりを持たなければ全国で90万人以上いる(研究者の)方が会員になれない仕組みだ」と強調した。
③会員候補6人の任命拒否に関して、「正直言ってかなり悩んだ。学術会議から推薦のあった方をそのまま任命する前例を踏襲するのは今回はやめるべきだと判断した」と説明した。

 ①に「閉鎖的」ということばが出てくる。この「閉鎖的」を説明しているのが②である。「閉鎖的」という事象の対象を「選考方法」と定義し、具体的に「会員約200人、連携会員約2000人の先生とつながりを持たなければ全国で90万人以上いる(研究者の)方が会員になれない仕組みだ」と言い直している。これだけ読めば、「なるほど、会員、連携会員とつながりを持たないと選ばれない(推薦されない=読売新聞の記事には書かれていないが「推薦制」に問題があると菅は言っていたはずである)のか」という気持ちになるが、これって、「事実」?
 いったい「90万人」のうち「会員200人、連携会員2000人」とつながりを持たないひとって、何人? 私は「学者」の生活を知らないけれど、「学者」なら「学会」へ出席するとか、同じテーマで意見を交換するとかするのではないのか。「論文」を互いに交換したり、意見を言い合ったりするのではないのか。誰ともつながりを持たない「学者」がいるとは思えない。人数の対比だけで、つながりの有無を断定することはできない。
 さらに、「学者」のうちの誰かが、「私は、会員になりたいのに、会員、連携会員とつながりがないので、推薦してもらえなかった」と訴えているのだろうか。「あなたの研究は非常に優れている。けれども私の研究を支援してくれている別のひとを会員にしたいから、あなたを推薦できない」と言われた学者がいるのだろうか。
 そういう「事例」があるなら、それを明示し、「閉鎖的」の根拠として示さないといけない。「会員200人、連携会員2000人、それ以外の学者90万人」という数字だけ並べて、「閉鎖的」と言う「結論」を出すのは無理である。
 「閉鎖的」あるいは「閉鎖性」というのは、「情報」がどれだけ開示されているかということと関係がある。
 菅は、学術会議に対して、105人の推薦者の推薦理由を問い合わせたのか。問い合わせたけれど、推薦理由が開示されなかった。誰が推薦したのか、推薦人も開示されなかった、というのなら、学術会議の推薦者の選考方法は「閉鎖的」と言える。しかし、それが開示されるなら、それはたとえ、事後報告であったとしても「閉鎖的」とは言えない。選考方法を点検し、批判し、次の選考に行かしていくことができる。
 この「情報の開示」という点から菅のやっていることを見直すとどうなるか。
 菅は6人を拒否した理由を開示していない。これは「選考過程」が開示されていないということである。しかも、国会で国民の代表である議員が質問しているのに、選考基準を明示しない。いままで断片的に語られているは、大学に偏りがあるとか、女性が少ないとか、であるけれど、それは多くのマスコミが指摘しているように「事実」ではない。菅は今回「閉鎖的」ということばをつかっているが、その「閉鎖的」と同じように、単なる「思い込み」である。「事実/事例」を明示して、閉鎖性を証明しているわけではない。
 多くで言われているように、6人が政権に対して批判的な言動をしたことが任命拒否につながっているのであれば、それこそ菅(政権)と友好的なつながりを持たないひとは学会会員になれないという「閉鎖性」を生み出す。
 「閉鎖的」なのは、菅の方なのである。「閉鎖的」でないと主張するのなら、明確な「基準」(選考過程)を開示すべきなのである。
 この政権(権力)の閉鎖性は、そして、他の分野にも次々に拡大されていくおそれがある。ある活動が(そして、その活動をしているひとが)、なんの理由も明らかにされずに排除されるということが起きかねない。安倍は安倍の「お友達」を優遇する手法を貫いたが、菅は菅の「敵」を排除するという手法をとるのである。(これは、結果的に、菅の「お友達」を優遇するということにつながるが、優遇を前面に出すのではなく、排除を前面に出すのが菅の特徴だ。すでに政府方針に反対の職員は異動させる、と排除姿勢を明確に語っている。)
 権力をもっているものは、その権力の行使について疑問をもたれたとき、行使の「根拠」を明示しないといけない。具体的に言えば「法」を明示しないといけない。
 これについては、菅は「学術会議法」を引用しているが、「解釈の仕方がおかしい」という指摘には「解釈を変えた」というようなことを言っている。「法」は行政機関が勝手に「解釈を変更する」ということがあってはならない。立法機関(国会)で審議し、見直さないといけない。この「解釈の変更」についても、菅は「後出しじゃんけん」のように内閣法制局に問い合わせたというようなことを語っているが、明確な文書は提示していない。学術会議にどうやって解釈の変更を伝えたか、その文書も残っていない。これでは正確な「情報開示」ではない。単なる「言い逃れ」である。
 いちばんの問題は、学術会議の「閉鎖性」ではなく、菅が行政が「閉鎖的」であるということだ。

 「正直悩んだ」の「悩んだ」が何を指すのか、③を読むかぎりでは、私には、まったく理解できない。「学術会議から推薦のあった方をそのまま任命する前例を踏襲するのは今回はやめるべきだと判断した」と語っているが、菅は「99人の名簿しか見ていない」とも語っている。見た99人をそのまま任命しているなら、それは前例踏襲そのままであり、何を悩んだかわからない。悩むとすれば、6人の任命拒否が適切であるかどうか、ということになる。6人だけでいいのか、もっと増やすべきではないのか、いや6人も任命すべきだ……と判断に悩むというのなら、わかる。でも判断が入り込んでいないなら、悩む理由などどこにもない。
 「閉鎖的」ということばについてもそうだが、この「悩む」ということばについても、読売新聞の記事は明確に定義してつかおうとはしていない。菅が言ったから、それをそのままつかっている。「報道」なのだから「言われたことばは言われたままに」ということなのかもしれないが、言論機関であるなら、こういう姿勢はおかしい。「閉鎖的」「悩む」ということばが適切につかわれているかどうかを含めて報道しないといけない。
 野党も同じ。私は新聞でしか予算委のやりとりを確認できないが、用意してきた質問を読み上げるだけではなく、菅の答弁を聞いて、そこに含まれる問題を指摘することが重要だ。「一問一答」なのに、用意してきた質問をするだけで終わるのは、まことにだらしない。
 「閉鎖的」とはいったいどういうことなのか、「悩む」とはどういうことなのか。こんなことをいちいち質問するのは小学校の国語の授業か学級会なみのやりとりだが、菅の答弁が小学生の言い訳のようにその場しのぎなのだから、それがいかにその場しのぎであるから指摘することからはじめないといけない。
 それにねえ。
 国会(予算委員会)は、菅の「悩み」を聞く場所ではない。「悩んだ」と打ち明けて、同情を集め自己主張をつらぬくなんて、まさに小学校の学級会なみのことではないか。どんなに悩んだにしろ、その判断をした「根拠」を明確にし、「根拠」を共有し、それからはじまる行動を共有するために論理を展開するというのが、リーダーの仕事だろう。


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