自民党憲法改正草案再読(23)

(現行憲法)
第38条
1 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
2 強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
3 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。
(改正草案)
第38条(刑事事件における自白等)
1 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
2 拷問、脅迫その他の強制による自白又は不当に長く抑留され、若しくは拘禁された後の自白は、証拠とすることができない。
3 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされない。
 現行憲法の「強制、拷問若しくは脅迫による自白」を「拷問、脅迫その他の強制による自白」と改正する意図はなんなのだろうか。現行憲法の「強制」は必ずしも「拷問、脅迫」だけを指すわけではないのだろう。「お願いします」というかたちでの「強制」もある。「助言」というかたちの「強制」もあるかもしれない。しかし、改憲草案では「依頼」「助言」は「強制」にはならないだろうなあ。
 よくよく他の条文と(さらには法律と)あわせて読んでみないとわからない問題が隠れているかもしれない。
 「刑罰を科せられない」の削除も、有罪ではないのなら刑罰がないのは当然と思うけれど、では、なぜ現行憲法にはわざわざ「刑罰を科せられない」があったのか。それがわからない。13条の「個人」から「個」が削除され「人」になったのと同じで、よくよく考えてみないとわからないことが隠されているかもしれない。
 前にも書いたが、私自身が刑事事件を引き起こすという「可能性」について考えてみたことがないので、どうも真剣になれない。何かを見落としているだろうなあ、という不安がつきまとう。

(現行憲法)
第39条
 何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。
(改正草案)
第39条(遡及処罰等の禁止)
 何人も、実行の時に違法ではなかった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない。同一の犯罪については、重ねて刑事上の責任を問われない。

 「適法であつた行為」と「違法ではなかった行為」は、まったく違う。たとえば「売春」が公認されていた時代、「売春」は適法だったと言うことができる。ちゃんと法律が「売春」を認めていたのである。ところが「違法ではない」というのは、法律が現実においついていかない場合のことがある。たとえば「著作権法」では昔の法律では「デジタルコピー」とういものは存在していなかったので「デジタルコピー」は「違法ではなかった」。「違法ではなかった」が法律を見直し、被害者を救済する(加害者を罰する)ということが改憲草案ではできなくなる。加害者を罰するはむりだとしても、それに連動する被害者の救済もむずかしくなる。これでは、なんというか、「法律ができる前に、やれることはやってしまえ」という風潮を生まないか。そして、そういう風潮は、普通の国民ではなく、法律をつくったり、施行したりするひとの「有利」にならないか。
 情報公開を請求された政府の資料。「完全公開しなければならない」という法律がないかぎり、どれだけ「黒塗り」にするかは資料をもっているひとの判断に任せられ、黒塗りした人は「違法ではなかった行為」をしたにすぎないから「無罪」だね。「無罪」なら、被害者救済も進まない。事実の解明も進まない。「赤城ファイル」問題は、こういうことを明るみに出す。きっと、これも「改正草案」の「先取り」というものだろう。

(現行憲法)   
第40条
 何人も、抑留又は拘禁された後、無罪の裁判を受けたときは、法律の定めるところにより、国にその補償を求めることができる。
(改正草案)
第40条(刑事補償を求める権利)
 何人も、抑留され、又は拘禁された後、裁判の結果無罪となったときは、法律の定めるところにより、国にその補償を求めることができる。

 「又は」のつかい方が、微妙に違う。「抑留又は拘禁された後」「抑留され、又は拘禁された後」。読点「、」があるかないか。現行憲法は「又は」の前に読点をつけないのが普通である。現行憲法では「又は」で結ばれることばは、切り離せない、つまり「同一のもの」という認識があるのかもしれない。
 ここから振り返ると、第38条の「有罪とされ、又は刑罰を科せられない」という条文ができたとき「有罪」と「刑罰を科す」は「同一のもの」ではなかったということになる。「、又は」という書き方は「有罪」と「刑罰を科す」は同一でないという考えがあるから「、(読点)」を必要としているのだ。それがどういうときか、私には想定できないが、別のものと考えることが一般的だったのだろう。
 第39条の「又、」が改憲草案では削除されているが、これは「又、」があると「同一のものではない」という強調を消すためのものだろう。
 改憲草案に多く見られる「これは」という文言の削除、あるいは「及び」「又は」という何気なくつかっていることばの微妙な変化は、大きな「落とし穴」かもしれない。意味(というか、その条文の拘束力)が同じものなら、わざわざ変更する必要がない。時代の変化に合わせて緊急に変更しなければならない問題点なら、そういう「細部」にこだわらず、「細部」は踏襲して、必要な部分だけを最小限に改正するという方法があっていいはずなのに、改憲草案がやっていることはあまりにも「細かい」。「細かい」ことは、たぶん、見落とされる。見落とした方が悪い、と言い逃れる「悪徳商法」のパンフレットみたいなものだ。
 ことばは、「意味」だけではなく、「意図」を読み取る必要がある。

マスコミ批判、政権批判を中心に書いています。これからも読みたいと思った方はサポートをお願いします。活動費につかわせていただきます。