濱口竜介監督「悪は存在しない」(★★★★)

監督 濱口竜介 出演 山の風景

 映画の冒頭、カメラが冬の木立をとらえる。下から、梢を見上げる形で。その木立の緑が、セザンヌの緑に見える。灰色に、とてもよく似合う。森を下からとらえた映画では、黒沢明の「羅生門」を思い出すが、あのぎらぎらした空ではなく、この映画では深く沈んだ緑、灰色と黒に侵食されながら、それでも保たれている緑が、さらに深く沈んで行く。見ているうちに、見上げているのではなく、見下ろしていような感じになる。たぶん、灰色の空のせいで。灰色は、凍った雪の色にも見えるのである。だんだん、私は見上げているのか見下ろしているのかわからなくなる。
 あ、これが、この映画のポイントなのか。「自分の立場」が、いつのまにかわからなくなる、というか、自分の見ているものが、どちらから見ているのかわからなくなるというのが、この映画のポイントなのか。(このことは、あとでも少しふれる。)
 それにつながる象徴的なシーンが、主人公が娘を学校へ迎えに行ったとき、あらわれる。娘はすでに下校していて、男は家へ引き返す。そのときカメラは進行方向(男が見ている前方)ではなく、車が進んできた方向(過去)を映し出す。過去は、どこまでもどこまでも男を追いかけてきて、それがまるで進行方向のように思えてくる。(このシーンは二度ある。)
 この「追いかけてくる過去」が、この映画のテーマなのだが、それをカムフラージュして見せるのが、冒頭の下から見上げた樹木(その緑)と空とのとけあう映像である。とても巧みである。
 さて。
 この映画の「悪は存在しない」という思わせぶりなタイトル。私は嫌いだ。思わせぶりと書いたが、見え透いている。下から見上げているのか、それとも見下ろしているか、と思ってスクリーンを見ていた冒頭のシーンでは、胸が高鳴ったが、走ってきた場所を映し出す車のシーンで、ちょっと見る気力が落ちた。ふつう、車を運転している人の見ている風景は進行方向である。しかし、カメラは逆方向を映し出し、男が「心の目」で見ているのは違うと暗示する。あるいは、あからさまに、告げると言った方がいいか。ここでは「わざと(作為的に)」カメラは逆方向を映しているのである。作為がありすぎ、(意図を説明しすぎ)、私は、とてもいやな気持ちになる。
 こういうことである。
 「悪は存在しない」、では「善は存在するのか」。こう問うと、冒頭のシーンの深みへ通じるのだが、悪と善とを過去と未来と言い換えて比較すると、とても簡単な答えが出る。現在から見ると、「過去は存在する(存在した、つまり「記憶」として存在するが)が、未来は存在しない(過去は実現されたが、未来はまだ実現されていない)」ということである。そして、「未来(善)」を実現するためには何が必要かと考えると、答えはもっと簡単になる。「いま」を守らないと「未来」はやってこない。「過去」は消え去り、取りかえしがつかないが、「未来」は、「いま」あるものを守ることで、これから美しい形であらわれてくる。
 そう見れば、この映画は、とても単純である。
 (映画を動かしている「見せかけ」の動力である、キャンプ場の建設も、「いま」の自然を守らないと、取りかえしがつかないことが起きるかもしれない、ということがテーマになっている。自分の「立ち位置が揺らぐ」というか、違ったものが見えてくるというのは、キャンプ場を開発しようとした都会の男と女にもテキヨウされている。彼らは、開発者の立場だったのだが、男に接しているうちに、だんだん気持ちがかわってくる。見えている世界が違ってくる。)
 男には娘はいるが、妻はいない。(かつては、いた。)どうしていなくなったのか。映画の最後で説明される。
 少女は、銃で撃たれた鹿と向き合っている。傷ついた鹿のとなりには子鹿がいる。傷ついた鹿は、こどもを守ろうとして人間に攻撃的になる。これは少女が体験したことだろう。過去にそういうことがあったのだ。少女と母親(そのとき男もいただろう)は傷ついた鹿の親子に会った。母親は少女を守るために、傷ついた鹿の前に立ちはだかった。それを鹿は、人間の攻撃と見なし、母親に襲いかかった。そのため母は死んだ。少女は、傷ついた鹿は人間に襲いかかるということを知っている。だから、最初は動かずにじっとしている。しかし、銃で撃たれた傷が心配で(帽子で傷を塞いでやりたい、手当てをしたいと思って)、鹿に近づく。
 ここから先は「暗示的」に描かれるだけである。男と同行していた都会の男は、少女を守ろうと動こうとする。動けばさらに危険と知っているので、男は都会の男を押さえ込もうとする。二人が格闘しているあいだに、事件は起こる。どんな事件か、どういう結末か、もう書く必要はない。
 男は、ふたたび「未来」を守れなかったのである。男には「過去」だけが存在する。それは「悪」か。もちろん、「悪」と呼ぶことはできない。「事故」である。そして、その「事故」は「未来」を守ろうとして起こした行動が呼び寄せたものである。「善」を実行しようとして行動したのだが、それは「悪」と呼びたいようなものになって、あらわれてしまった。
 だれだって、そんなことはしたくない。自分のしたことが「悪」だとは認めたくない。自分が「悪い結果」の原因だとは認めたくない。そして、だれも彼が(あるいは彼女が)したことが「悪」であるとは言わない。「悪は存在しない」と言う。そう言われたからといって、それでは、その行為をした人が救われるわけではない。

 「ドライブ・マイ・カー」を見たときも感じたのだが、ああ、この濱口竜介というのは、どこまでもどこまでも「意図的」なのだ。「作為的」なのだ。素人役者をつかい、わざと「疵」を残し、その「疵」によって、映像をいっそう美しく見せる。いや、実際、自然の風景はとても美しい。私は山の中で育ったからそう感じるのかもしれないが、あ、この色、この形、この空気の感じは、知っているぞ、私はこの色、この形、この音が、この空気が好きだった、心底共感してしまう。(だから★4個)。そして、だからこそ、とてもいやなのである。そうした美しいものにさしはさまれた「作為」が。
 たしかに、人間の行為に「悪は存在しない」。その考えに私は与する。しかし、あるとき、人間の行為には「作為が存在する」。ときには「作為は存在しないと見せかける作為」というふうに、手の込んだものまであらわれる。
 そうであるなら、最初から「作為」を前面に出して映画をつくればいいのだ。「作為」だけで映画をつくろうとしたが、どうしても「作為」ではないものがあらわれてしまった。そういう映画を見てみたいなあ。「作為」をとおしてしか具体化できないもの、浮かび上がらせることのできない「ほんとう」というものあるのだから。

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