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「響け!ユーフォニアム」のアニメ版に肩まで浸かったオタクが今さら原作を読んだ話

はじめに

 『響け!ユーフォニアム』は2015年に放映されたテレビアニメで、そのクオリティの高さに定評のある京都アニメーションが制作した作品である。青春を賭して吹奏楽に向き合う高校生の等身大の姿を美しく描き出した同作は反響を呼び、テレビアニメ版2シーズン、劇場版都合4作品がすでに人口に膾炙しているほか、2023年以降に続編や特別編の製作も決定している、息の長いシリーズだ。
 ……などと始めると、ふつうそこは「2013年に宝島社文庫より刊行されている武田綾乃による小説で――」と書き出すべきだろうと叱られそうではあるが、まさに今回のテーマはここで、私にとって「響け!ユーフォニアム」(以下「ユーフォ」)は完全にアニメから入った作品だったわけである。そればかりでなく、基本的に「ハマった」映画やアニメはすぐ後を追うように原作を手に取ることの多い私にしてはめずらしく、異常なまでにドハマりしたくせに、テレビアニメ第1期の放映から約7年間もの間ろくに原作を読まなかった希有なシリーズなのだ。
 すなわち私にとってユーフォは(コミカライズも読んでいないので)京都アニメーションの制作したアニメ作品がそのすべてであり、それ以上でも以下でもなかったわけである。
 そんな私が今さら原作本を読み始めた理由そのものについては、今回の本題から少しずれるため次回以降に語ろうと思う。今回は、モブキャラの名前を覚えて片っ端から画像検索をしピクシブ百科事典を読みあさるまでにアニメ版に肩までどっぷり浸かったオタクが、いざ新鮮な心持ちでユーフォの原作を読んだとき何が起こるのか、その片鱗をどうしても共有したいのでしばしお付き合いいただければ幸甚である。
 なお既述のとおり私はユーフォの「アニメ」オタクであるので、どうしても視点の入口はアニメ版にある。べつに原作者である武田先生の作品や作風を批判・非難する意図はいっさいなく、そう読み取れる箇所があったとしてもそれはまったくもって誤解であると念のため申し添えておきたい。

アニメが創成した偶像を原作が破壊する

 さていきなり前提を覆すような話で申し訳ないが、実はアニメ版第1期の放映と時期を同じくして、一度だけ原作を読もうと思ったことがある。先ほど『約7年間もの間ろくに原作を読まなかった』と書いたのはそのためだ。当時、実際に書店に出向いて原作1巻を購入し、ページをめくってはいるのである(宝島社文庫は扱っている書店自体が少なく、探すのがやや手間だった記憶がある)。なぜ読むのをやめてしまったのか、それについては大変に外面的な話であるので、こればっかりは原作者の武田先生に申し訳が立たない。

 知っての通り、ユーフォの舞台は京都府立北宇治高等学校という架空の公立高校だ。すなわち、出てくるキャラクターは生徒も教師も父兄もそろいもそろって京都府民である。
 もうおわかりかもしれないが、そう、ユーフォの原作では登場人物は基本的にゴリゴリの関西弁でしゃべるのだ。標準語のキャラクターは数えるほどしか出てこない(その数少ない一人が主人公の久美子だ)。
 たとえばこんな調子である。

「言っとくけど、滝先生はすごい人やから! 馬鹿にするなんてアタシが許さんで!」

武田綾乃『響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部へようこそ』(宝島社,2013),p. 93

「優しいなんてなあ、褒めるとこがないやつに言う台詞やろ? うち、わかってんねんからな!」

武田綾乃『響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部へようこそ』(宝島社,2013),p.159

 前者は新たに顧問となった滝の指導力について話し合っていた久美子と秀一に、偶然通りがかった麗奈が声を上げるシーン。後者は葵の退部を止められなかった晴香が、音楽室前に廊下で久美子に食ってかかるシーンである。アニメ版ではそれぞれ第1期第4話と同第7話に含まれる、印象的なシーンだ。これが原作になると、堂々とした張りのある麗奈の声も、泣き虫部長のふわふわした声も、終始この口調で描かれている。
 根源的なことを言えば、舞台が京都である以上はこちらのほうが理にかなっているはずである。しかしながら、いわゆるキャラものの著作物において、関西弁というのはそれだけでキャラクターのアイデンティティになりうる。目で文章を追う原作本と異なり、映像となれば登場人物のセリフは音波として視聴者の耳から入るものであるから、なおのことその傾向は顕著だ。アニメ版のキャラクターが全員標準語であるのは、原作者の生み出したキャラクターの個性と、それが異なるメディアという皿に載せられて視聴者へ提供されたときに与えうるバイアスとを天秤にかけた結果であると考えれば、おおむねうなずける決断であるだろう。
 もっとも、京都アニメーションも商売であるからには万人受けする作品、下世話な言い方をすれば「売れる」作品を作らねばならないし、いわゆる「エセ関西弁」ではない本当の京都弁を操れる声優をあれだけの人数揃えるというのも現実的ではないだろうから、そういった意味でもアニメ版のキャラクターが標準語であるのはごく自然なことであると思える。

 ところがこの事実は、アニメ版からユーフォという作品に触れた人、……さらに言えば私も含めて「ドハマりした人」が原作本を読もうとしたときには、高くそびえる壁となりうる。すなわち、京都アニメーションの作り出したキャラクター性が邪魔をして、アイデンティティを大きく異にする原作の登場人物をすんなり飲み込めないのだ。
 キャラクターの素性が限られた文字情報でしか与えられず読者の想像力が働かせられる余地のある小説とは違い、アニメではもちろん、彼女らの顔立ちから背丈から髪留めや靴下の色まで映像として認識させられる。
 アニメ化されることを「動いてしゃべる」などと言ったりするが、やはり文字作品と映像作品のメディアとしての差異はそこが占めるウエイトが大きい。たぐいまれな技倆を持つ京都アニメーションの制作陣とプロの声優陣によって咀嚼され生み出されたキャラクターたちは、グロテスクなまでに生々しくリアルな人間性でもって、視聴者であるわれわれにそのアイデンティティを提示する。そこに消費者側の理想や想像が介在する余地はない。私のなかでの麗奈は、どうしたって安済知佳さんの声で標準語を話すのだ。アニメ化に際して原作から設定を改変した作品なぞこの世にあまたあるが、しゃべり口調という相当に重要な点を――しかも登場する大多数のキャラクターにおいて――いじった例となるとそうそう思いつかないだろう。ユーフォの原作本を軽い気持ちで手に取った2015年当時、私はこのあまりに乖離したキャラクター性がどうしてもすんなりと受け止められず、ページをめくる手が止まってしまったのである。
 私は酒席などでユーフォの原作を読まなかった理由を「関西弁がどうしても受け付けなくって~」と説明したことが幾度かあったが、それをきわめて精緻に弁疏するならば以上のようになる。関西弁そのものを否定したいという話ではないので、もし仮に北宇治高校が博多にあっても青森にあってもまったく同じことを言っていただろう。アニメオタクが過ぎたがために、原作のキャラクターとアニメ版のそれとの同一人物性を私が理解するのに手間取って一冊の小説を楽しめなかったというだけの、ただの単純で恥ずかしいエピソードだ。

ジェットコースターを乗りこなす

 きっちり7年分大人になった私は、アニメの放映や劇場上映からだいぶ時間が経ったということもあろうが、今度ばかりはひとまず原作本の第1巻「北宇治高校吹奏楽部へようこそ」を読破した。読了後にまず頭に浮かんだ印象としては、まるでジェットコースターに乗っているようだというものだった。そう、原作本はストーリー展開がとても速いのだ。
 ……などという言い草には、やはりアニメ版から入ったオタク特有の驕りがにじみ出ているかもしれない。「アニメは原作と比べて展開が遅い」と言うのであればともかく、アニメ版を基準に原作がどうこうと論じるのは視点の逆転も甚だしいと感じられるであろう。が、私がこの作品に触れたときに大いに驚愕し、かつ京都アニメーションという会社が小説を映像に落とし込むときに用いる技術と技法を垣間見ることができるのがまさにこの点であると思われたので、しばらく堪えてほしい。

 実は京都アニメーションという会社は、必ずしも原作に忠実な作品制作をモットーとする会社ではない。むしろ映像化に際して、原作の大筋を外れない程度の改変なら進んで行うような印象すらある。結果として生み出された作品(成果物)のクオリティがなまじ高いだけに文句をつける人間が少ないだけで、いわゆる「アニオリ要素」というものが京アニ作品には大いに含まれているのが常だと言っていい。それは、ことこの『響け!ユーフォニアム』においてもその実同様である。
 ユーフォのアニメ版第1期(全13話・番外編除く)は、時系列としては久美子が北宇治高校に入学してから吹奏楽コンクール京都府大会を突破するまでの、原作本第1巻「北宇治高校吹奏楽部へようこそ」の内容だけで作られている(一部に短編集に含まれるエピソードも使われてはいる)。私のような至極一般的なアニメオタクの感覚からすると、1冊の文庫本から1クールのテレビアニメを制作するのは尺が足らなすぎて難しい考えてしまうだろう。
 例を挙げれば、ユーフォ同様に小説を原作とする京都アニメーション作品の『氷菓』では原作本第1巻に相当するのはアニメ5話分、同じく『涼宮ハルヒの憂鬱』では6話分なので、順当に作るとこれぐらいの分量になるのであろう。実際には原作の内容を大胆に端折ってかなり駆け足な展開を見せるアニメ作品も多いなか、逆に倍以上の話数に引き延ばして映像化された作品というのも相当に珍しい。

 すなわちこの引き延ばされた部分にこそ、京都アニメーションが原作をアニメ作品へと料理するうえで加えられた要素、京アニエッセンスとでも呼ぶべきものが多分に含まれているわけである。標準的なタイトルの倍ほどの濃度でもって散りばめられたそのエッセンスこそが、『響け!ユーフォニアム』というアニメ作品の魅力であり、見所であり、本質であるとさえ私は考えているのだ。
 であるからこそ、原作本をジェットコースターのようなテンポであると評したのは、決して悪意からではない。そのジェットコースターに乗りながらでしか味わえない京アニエッセンスを感じることが、『響け!ユーフォニアム』という作品にアニメ版から入り、アニメ版に心底から夢中になったオタクにだけ許された楽しみ方であるとすら、読了後のいまでは思う。

生み出された神の視点

 この世に存在する小説を大きく二つに分類するならば、何をその線引きとすべきだろうか。色々とやり方は挙げることができようが、その一つが「地の文が一人称形式か」「三人称形式か」という分け方である。
 一人称形式の作品というのは文字通り、語り部たる主人公の目玉から見た光景と、耳から入った音声と、心で憶えた感情とをそのまま文章に書き起こしたもののことである。読者が主人公に感情移入しやすく、キャラクターたちの言動を理解しやすいのでライトノベルでは多用される体裁ではあるものの、実は小説というのは世界的に見ると一人称形式のほうが起源が古い。あくまで、「私」を主語にして語られるフィクションに対するアンチテーゼとして生まれたのが三人称形式の小説なのである(「世界的に見ると」とわざわざ書いたのは、日本においては一人称小説のほうが後発だからだ)。
 書き手にも読み手にも長所の多い一人称小説だが、最大の弱点は主人公がその場にいない光景は描写のしようがないということに尽きる。主人公の目玉はその作品におけるカメラであるわけだから、これは映像にしても同じことで、先述の『涼宮ハルヒの憂鬱』も主人公であるキョン君がいないシーンというものは基本的に存在しない。いや、存在しようがないと言ったほうが正しいかもしれない。

 ひるがえって三人称小説(特に文学史的にいうところの三人称多元視点の小説)の語り方は、よく全知の神になぞらえて「神の視点」などと言われたりする。このフレーズはもともと19世紀に欧州の文学者の間で使われたものであるが、主人公の見ていないもの、聞いていないものをも描写するその語り部を、いつでも・どこでも・すべてを見ている主にたとえたそのネーミングセンスはいかにもキリスト教圏らしい。さしずめ”God sees everything they do.”とでも言おうか。
 さてこの『響け!ユーフォニアム』は、一人称ではなく三人称形式で書かれている。しかしながら注意深く読み進めていくと、ある事実に気づくだろう。ユーフォの原作は、三人称形式でありながら主人公・久美子の視点をいっさい離れることなく物語が進んでいくのである。久美子はこのように思った・言った、あるいは(久美子の目から見て)誰々はこう行動したなどの描写こそあれ、他のキャラクターが内心どのように思っているなどというような記述はないし、久美子がいない場所のシーンはまったく存在しない。
 すなわちユーフォは、三人称形式の小説でありながら語り部が神の視点を持っていない。文学史的な分類に「三人称一元視点」という言葉があるが、地の文が久美子の目をいっさい離れないという点で、ユーフォはそれよりもかなり極端だ。一般に認知されている概念よりもはるかに正確な意味での一元視点を、この作品は持つ。現代風に例えるならば、つねに久美子の数メートル上空を付き従って飛行するドローンから送られてくる映像を見ながら、語り部が実況を入れているようなイメージだろうか。これが、ユーフォの大きな特徴なのである。

 それを踏まえたうえで、アニメ版を考えてみよう。
 そう、基本的に久美子の一人称形式で進むアニメ版ではあるが、実は久美子のいないシーンというものが数多く描写されている。久美子視点で常時物語が進行する原作に対して、アニメ版にのみ存在するこの「脱・久美子視点」こそ、先述した京アニエッセンスの最たるものなのだ。
 この『響け!ユーフォニアム』という作品の主人公である黄前久美子という少女は、正直なところ大変に地味なキャラクターをしている。当初は楽器や吹奏楽部にそこまで熱心な姿勢ではなかったし、そうでありながら小学生からのユーフォニアム経験者なので「吹けなかった楽器を苦労してようやく吹けるようになった」というような劇的なエピソードもなく、コンクールメンバーを選ぶオーディションもあっさりと通過している。性格的にも年齢不相応にどこか冷めていて、あまり他者も深く関わり合いになろうとしないところがある。批判を恐れず端的に言えば、主人公向きではないのである。
 そういうキャラクターによって語られる作品を映像というかたちに昇華させるとき、京都アニメーションが編み出した秘策がこの「脱・久美子視点」なのであると私は考えている。カメラは久美子の目を離れ、吹奏楽部員たちの人間関係をつぶさに記録する。たとえば第1期第7話の、葵の退部騒ぎのあと風邪で病欠した晴香のところへ、香織が焼き芋を持って見舞いと励ましに訪れるシーンがその筆頭であろう。完全に原作通りに映像化していたら、まず存在しえない場面である。久美子の視点と居場所にとらわれないこうした細かな描写の積み重ねが、部員たちが生身の人間たることを浮き彫りにし、はかなげな青春色でもって染め上げ、カタルシスを出迎えるの下地とするのだ。
 なかんずく部活動モノという、魔法も超能力も出てこない、登場人物の人間性と心理描写で勝負しなければならないジャンルの作品においては、ストーリーが進むにつれてこの下地が隠し味のごとく効果的に作用するだろう。京都アニメーションからすれば手慣れた手法なのかもしれないが、彼らはそれがわかっているからこそ、視点を久美子に固執させない決断ができたのである。

『響け!ユーフォニアム』は誰の物語か

 たしかに京都アニメーションの編み出した「脱・久美子視点」は、相当にエフェクティブであることは間違いない。
 だが、この『響け!ユーフォニアム』は、ほかでもない黄前久美子という一人の少女の歩みの物語なのである。伝記だと言ってもいい。彼女がいくら地味で冷めたキャラクターをしていて、主人公向きではないというレッテルを貼られていようとも、これは久美子の物語なのだ。
 久美子が名実ともに主人公なのだから当たり前じゃないかと、私はそういう議論をしたいのではない。彼女が語り部であることと、『響け!ユーフォニアム』が「久美子の物語」であるということは、決してイコールではないのである。

 京阪電車の宇治駅から平等院へ向かおうとすると、駅前のロータリーを出てまず宇治川を渡ることになる。ここに架けられている大きな橋が宇治橋であり、作品内にもかなりの頻度で登場する肝要なスポットだ。
 吹奏楽コンクール京都府大会を控えたある日の合奏練習で、自由曲『三日月の舞』のあるフレーズが久美子はどうしてもうまく吹くことができず、顧問の滝によってその部分の奏者から外されてしまう。その日の帰り道、彼女は鼻血を出すほど練習し続けたにもかかわらずその努力が実らなかった無念さから、「うまくなりたい……うまくなりたい……」と大粒の涙を流しながらこの宇治橋を疾走する。ユーフォのオタクの間で宇治橋が「うまくなりたい橋」などと呼ばれている所以となった、アニメ第1期第12話の大変に印象的な場面だ。
 原作を読んでいない人に言うと驚かれるのだが、実はこのくだり、すべてアニメ版のオリジナルなのである。宇治橋がどうこうという話ではなく、これだけ特徴的で重要そうなシーンでありながら、久美子が奏者から外されるという展開そのものがアニオリなのだ。私も原作本を読んだときは驚愕した。もっと言えば、この宇治橋のシーンを小説ではどう表現しているのか前々から気になっていたので、そもそも存在しないと確認したときには驚愕どころか拍子抜けすらしたものである。

 では、アニメ版にはなぜこの場面が存在するのか。言い換えれば、京都アニメーションはなぜ最終回の1話前というタイミングでこのシーンを「創作」したのだろうか。
 もちろん、来たるべき最終回に向けてちょっと盛り上がりのあるシーンを挿入することで機運を高めておこうという企図がゼロだったとは思わない。繰り返しになるが京都アニメーションも商売で作品を作っている以上、そういう思惑がいくらかあったのは間違いないだろう。しかし私はこの宇治橋のシーンが、そんな単純で商業的な意図で生み出されたものであるとは到底感じられないのである。
 結論から言おう。宇治橋のシーンは、『響け!ユーフォニアム』が「久美子の物語」であることを視聴者に再確認させるために生み出されたのだと私は考えている。
 弱小吹奏楽部が新たな顧問を迎え入れ、組織として成長し、府大会を突破するというおおまかな筋書きは当然、原作とアニメ版で変わることはない。だがアニメ第1期では葵の話、葉月の話、優子と麗奈の話と、久美子の一元視点を離れて他のさまざまなキャラクターにスポットライトが当たってきた。彼女ら久美子以外の人物が主題となり、久美子以外の人物の視点で描かれるシーンを積み重ねて作品の厚みを増すという手法で、アニメ版は第12話まで舵を取ってきている。視聴者はいつの間にか、京都アニメーションに与えられた「脱・久美子視点」がさも当たり前のものであるという意識を、11話分の時間を掛けて植え付けられる。
 しかしながら、これは黄前久美子という少女の物語である。もっと極端な言い方をすれば、北宇治高校吹奏楽部ではなく、久美子が関西大会へ歩みを進める過程を描いた作品がこの『響け!ユーフォニアム』なのだ。なのであるから、いくらこれまでずっと「脱・久美子視点」によって多角的に吹奏楽部の活動と人間模様を追ってきた視聴者であっても、その事実を再認識した状態で最終話の府大会の演奏シーンを迎えてもらわねばならない。視聴者の間に完全に醸成された「脱・久美子視点」を完膚なきまでに破壊し、第12話のBパートという絶好のタイミングで物語の主人公性を久美子に還元することで、来たるべきカタルシスへの下地を創造する。この完膚なきまでの破壊が、最終話に向けての期待と不安と興奮をより強固なものとする。わずか数分の宇治橋のシーンではあるが、ここまでの意図をもってして京都アニメーションはあの印象的な場面を生み出したのだ。
 ……と思うのは、私の考えすぎであろうか。

おわりに

 メディアの違い、という言葉がある。
 小説にせよ漫画にせよアニメにせよ、はたまた実写映画にせよ、同じ人物が同じことをする作品を作ったとしても、もちろんそれが全く同じものになることはないし、なり得ない。これは至極当たり前の話で、なぜなら文庫本から音が出ることも、漫画本の絵が動くこともないからである。
 しかし、原作とメディアミックス作品を比較して「どちらが優れているか」という議論は、大変不毛でナンセンスであることを万人が理解していながら、不思議としばしば巻き起こる。新垣結衣と産まれて間もない仔猫を並べて「どちらがかわいい?」と尋ねるようなものなので何の意味もなさないはずなのに、この『響け!ユーフォニアム』に関しても、アニメ化当初から時折目にした。

 この作品の筋立ては、明快ではっきりしている。であるからこそ、いわゆるメディアの違いが際立つ作品としての楽しみ方ができる。ことアニメ化を手がけたのは、独自の調理法に定評のあるあの京都アニメーションだ。原作本は決して、アニメ版の台本ではない。アニメ版を画面に穴が開くほど見まくったオタクが、まっさらな気持ちで原作本を読んだときに得られる独特の快感と感動は、そういう議論が心の底からばかばかしくなるような説明の難しいものであった。本稿では宇治橋のシーンについて一節まるまる割いて好き勝手私論を述べたが、この作品に隠された「メディアの違い」は当然、そこだけにとどまらない。一つずつ指摘して論議するのも野暮だと思ったのでこれ以上は書かないが、それを紐解いてなお余りある魅力が、この作品にはまだまだ隠されているだろう。『響け!ユーフォニアム』は、そういう快哉を叫ぶのにはうってつけの素晴らしい作品だったと、読了後の私は胸を張って言うことができる。
 また『響け!ユーフォニアム』は、2023年以降にさらなるアニメ化の企画が発表されている。つまり、このタイミングで原作本に触れた私は実に幸運だと言っていい。なぜならすでにアニメ化が完了している『波乱の第二楽章』までは「原作をアニメ版と比べながら」、これからアニメ化される『アンサンブルコンテスト編』および『決意の第三楽章』は「アニメ版を原作と比べながら」楽しむことができるからだ。メディアミックス展開の途中で原作を読み進め、追い越すということをした人間にだけ与えられた正反対の視点でもって、北宇治高校吹奏楽部の歩みを久美子のさらに後ろから眺め続けていたいと、私は思っている。

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