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「扉はいつ閉まるか分からない」

という、コピーライティングでお決まりの(?)殺し文句がある。


端的に言えば、この一言で読者の感情を揺さぶって、購買意欲を駆り立てる、(文字通り)駆け込んでもらう、という殺し文句だ。


まあ、「殺し文句」というとネガティブなイメージがあるとは思うが、半分程度は真実なので、この表現を用いても悪くはなかろう。かくいう自分も、こういう言葉には何度も心を揺さぶられているので、揺さぶられる人の気持ちも分かるし、揺さぶる側の心理もある程度は理解できる。



が、しかし、今回の物理的な一連の移動制限、入国制限を傍目で見ていて、ふと疑問に思ったことがある。


それは、この「扉がいつ閉まるか分からない」と言っている人は、どこの位置からこの一言を発しているのか?ということだ。



かくいう私はこれまでずっと、「閉まる扉の向こう側」からこの声を発しているとは思っていた。より厳密に言えば、現在進行系で扉が閉まっていれば、それは「扉がいつ閉まるか分からない」ことと矛盾するので、恐らく発話者と受話者の間に、扉らしき何か(見えない障害物、と言ってもよかろう)があって、この殺し文句を発する人は、その向こう側にいるのではないか、となんとなく思っていた。



が、今回の一連の世の中の動きを見て考えるに、どうやらこの推察は間違っている可能性が高いことに気づく。


自分の場合、今回の一連の世の中の動きの中では、「駆け込みギリギリセーフ」だった側に属するのではないかと思う。まあ、自分の場合、

・2010年、初めてヨーロッパに行ったとき、帰国の1週間後にアイスランドの火山が噴火して欧州の飛行機が全て欠航

・2015年、仙台→伊丹の飛行機に乗った数日後に、(恐らく経路付近にある)御嶽山が噴火

・2018年、群馬の草津温泉に旅行に行った数週間後に、近くの火山が噴火

と、いくつものタイミングで「スレスレ」の線を通っているのだけれど(たとえが全て火山噴火になっているけど、これはたまたま)、少しでも自分の行動スケジュールが後ろだったら、流れ弾に直撃していた可能性もあるわけだ。


そして今回の、欧州全域での渡航制限、入国制限。当然ながら、日本への帰国は(移動経路・出国経路の制限はあるが)問題なくできるけれど、タイミング悪く欧州から離れていた人は戻れていない可能性があるし、旅行中の人でも運悪く制度の隙間に挟まって閉まった人も一定数いるように思う。


かくいう自分も、制限がかかる少し前に問題なくヨーロッパに戻ってこれた身なので、こればかりは僥倖としか言いようがないのだけれど、では当初のテーマに戻って、果たしてこの立場で自分が「いつ扉が閉まるかは分からない」と言えるのか、ということを、改めて考えてみた。




答えは「否」である。



自分は昔から将棋をやっていることもあって、勝負の世界を少しだけ囓っていたし、今でもプロの将棋の世界から学んでいることも沢山ある。


そして、そういう世界を垣間見て思うのは、人間己の実力だけではどうしようもない時も多々ある、ということだ。それは端的に言うと「運」という表現になってしまうが、タイミングの善し悪し、間の善し悪しなど色々あって、結局は「紙一重の差」でしかない。



ここでも将棋の話で恐縮だが、プロの将棋の世界では「順位戦」という、プロの格付け戦があり、その戦いで決まる順位1つが、その後の将棋人生に大きく大きく影響を与えてしまうことがある。


すごく簡単な例で言えば、トッププロ10人が序列(順位)を決める「A級順位戦」。10名総当たりの、約9ヶ月にわたる戦いでは、同じ成績(例えば4勝5敗)でも、順位の差で(下のクラスへの)陥落か、残留かが決まってしまうことがある。


将棋のプロの場合、そういう「運」は「順位」という序列によって決められるわけだが、順位1つ(6位と7位)の差なんて、本当に文字通り、紙一重である。けれど、この6位のプロと7位のプロが共に4勝5敗で1年の戦いを終えたとしても、6位は残留、7位は陥落、ということが起こり得るのが、将棋の世界なのだ。



話がずれてしまったので再び戻すが、将棋の場合は分かりやすい「順位」が付いているが、現実世界ではそんなものが付いているわけではない。しかし、目には見えないけれどタイミングの善し悪し、間(間合い)の善し悪し、行動の方向性の善し悪しというのは人それぞれ違っていて、そういう様々な要素が絡み合って、究極的には紙一重の差が生まれている、と、自分は思っている。


なので、今回特に問題がなかった自分はまさに「運が良かっただけ」だと思っているし、同じことがこれからも続くとも思っていない。


まさに、「扉はいつしまるか分からない」けれど、自分はその「いつ閉まるか分からない扉」に、今回はたまたま閉ざされずに、中に入ることができただけだ、ということなのである。



だから、これはあくまで自分個人の考えだけれど、そういう「僥倖」「運」の紙一重の差まで念頭に含めると、とてもじゃないが、(目には見えないが、そしてどこに存在するのかも分からないが)「扉」(らしいもの)の向こう側にいながら、表題の一言を言うことはできないな、と。


だって、次は自分がその扉のクローズに間に合わないかもしれないからだ。




さて、ここまで考えて今回のテーマの自分なりの結論にたどり着くのだが、この表題の殺し文句、実は発しているのは、扉のこちら側にも、向こう側にもいない、ただの傍からの傍観者が偉そうに、一丁前に発しているだけなのだ、ということである。



人間は言葉を使える生き物だ。それ故に、いくらでも言葉を紡ぐことは可能だし、ある一言で人の心を大きく動かすことだってできる。


しかし、本当に力のある言葉には、オーラが宿っているように思うし、そんな重みのある言葉は、人間やすやすと口にする(あるいは文字にする)ことはできないはずだ。というより、その発せられている(書かれている)言葉を聞けば(読めば)、言葉の重みというのは受け手にも自ずと分かるものなのだ。



そして更に思索を深めていくと、「重みのある言葉」を発することができないタダの傍観者が、表題のような殺し文句を畢竟使ってしまうのだろう。基礎となる部分がしっかりしていなければ、表面上のテクニックで誤魔化しにかかるのが、人間の性である。



本当に、扉の向こうにいる人は、こんな殺し文句を使うことはない。その向こうにいる人は、黙ってそっと手を差し伸べるか、何かできることがないかを陰ながら考えているものである。


本当に、扉の向こうにいる人は、言葉ではなく行動と背中で人を動かすものであろう。


自分も、そちら側の人間であり続けたい。

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